2020年12月9日水曜日

Bing検索の来訪者、大幅増

  Googleアナリティクスを見ていると、以前は、google、または、yahoo検索でサイトに入ってくる人がほとんどだった。Bingの利用者は数えるほど。0という日も多かった。しかし、10月あたりから、突然、Bing利用者が増えだした。今ではgoogle+Yahoo利用者の十分の一以上になっている。十倍以上の増加だ。Googleがまた何かいじったのかもしれない。私同様、googleの検索結果表示に不満を持つ人が増えているように見える。半々くらいまで行ってくれないかなと思う。Bingの方が我がサイトを優遇してくれているのである。アナリティクス、ブログ、日本語変換システムなど、無料グーグルにずいぶん依存しているのだけれど。

2020年11月28日土曜日

容疑者 浮上

 数年前、団地の駐輪場に停めてあった私の自転車のサドルが誰かのいたずらで傷つけられた。ほんの数時間のできごとである。恨みを買う覚えはないし、住んでいるわけではないから、私の自転車と特定されるはずもない。行きがかりの無差別犯行である。むかついた。刃物の先端を突き刺したのだろうが、通路から一、二歩中に入らなければいけないし、それなりの面倒はある。しかし、やるにしても気の小さなやつだと思っていた。意図がわからない。
 今になって、そのいたずらの容疑者が急浮上してきた。↓こやつである。
隣に停めた自転車の荷台は雨よけのビニールで覆ってあった。少し押されたような凹みがあって、その周囲はピンと張りつめられた感じがあった。翌日、見たときにはカッターで切ったような長方形の穴が開けられ片端からめくり上げられていた。次の日には、その切り口が大きく拡大されていた。人間のいたずらにしてはおかしい。
 それ以前から、カラスが駐輪場の自転車の上を飛び跳ねているのは何度か見ていた。買い物かごを狙って餌あさりをしているのだと見当がついてきた。
 サドルの傷もこいつのクチバシと考えれば、その形状と符合する。刃物なら直線状の鋭い切り口になるはず。しかし、なんで俺のサドルなんだ。食い物がありそうには見えないだろ。「♪カラスの勝手でしょ~」と頭の中に返ってくる。

2020年11月18日水曜日

児童公園の雑草、薄れつつ

 コロナ肺炎対策の活動の自粛に疲れて、みんな徐々に生活を元に戻しつつある。親の禁止が解けたのか、子供たちが児童公園で遊び回るようになった結果、支配領域を広げていた雑草が、踏み散らされて薄れてきた。草の勢いが衰える季節というのもあろうが、それだけでは済まない薄れ方で、公園も元に戻りつつある。

 人の活動が盛んになるにつれ肺炎感染者も急増しだした。悩ましい問題である。屈強なスポーツ選手でも感染するくらいなのに、こちらには用心するしか対策がなさそうだ。心理的なレベルで実効性なんかありはしない。安倍マスクは一度使っただけでどこかへ姿を消してしまった。もう一つ残っているから使うか。多少の有効性はありそうに思える。これも心理的なレベルにすぎないかな?

2020年11月15日日曜日

マウス交代

 ずっと使っていた光学式マウスが壊れた。マウスはたくさんあったはずとガラクタ入れの中を覗いたら、三個しかない。いつの間にか使い潰していたらしい。三個のうち一つしかない光学マウスは無線式で、少し斜めになっている机では勝手に転げ落ちてしまう。Win98時代に使っていたボールマウスの二つのうち、どちらを使うかということになって、XNTeckと書いてある台湾製マウスを使うことにした。けっこう気に入っていたやつだが、光学式を使うようになって外れたのだった。ずいぶん古い。この会社は今も存続しているだろうか。右手で扱いやすいように形状を少し変えてある。私は右手の負担を減らすため、マウスは左手で使うようになったのだが、操作に問題はなかった。時々の掃除が面倒になるけれども、新しいものを買うほどのことでもあるまい。もう一つのマウスはソーテックのパソコンに付属していたやつだ。パソコンもまだ部屋の片隅に残っている。

2020年11月13日金曜日

自転車ギアーの摩耗

  六段変速の自転車のギアーの第六速が、力を入れると空回りするようになった。チェーンが固まっているのかと思って油を入れても同じ。ギアーが摩耗したのかもしれないとしげしげ眺めたら、やはりその通り。テッペンが低くなっていると想像したのに、溝の部分がすり減って、カーブが緩やかになり、トゲの部分の幅が小さくなっていた。

 パンクの修理ついでに自転車屋で聞いたら、同じギアーばかり使っているからだと言う。そうは言われても、坂道を登る時以外に細かいギアー操作は必要ないから。

 車を避けるためにダッシュと思っても、空回りしたら危険である。第五速のギアーを使うことにした。これも十年くらい保つだろう。それくらい使えたら、買い替えを惜しむこともあるまい。

2020年10月24日土曜日

漢字の起源(白川静氏を買わない理由)に「去」を追加

  「字統」の文字解説にある白川静氏の祭祀に関する記述には、今更ながらだが、あきれかえる。文字解説のために自らに都合のいい祭祀を作り出すのだ。史料、根拠は見当たらず、氏の妄想の中にしか存在しない。こんなものに、自分でよくOKを出せるなと思うが、ボケていたのかな?古田武彦氏と同系の人だ。
 一時のブームも終わったので、これから徐々に淘汰されていく人ではあろうけど。

2020年10月11日日曜日

魏臺で行われた論議を翻訳してレポートに追加

  通典巻八十三・礼四十三・凶五にある魏臺(魏の朝廷)での論議を翻訳して「邪馬壱国説を支持する史料と解説」の最後に加えておいた。論議の発端は明帝の詔である。

 「邪馬台(壱)国北九州説の研究」で、森浩一氏の「倭人伝を読み直す」を分析して書いている時、中国文献で使われている「死」と「以死」の例を調べ、「以死」は非業の死に使われるというレポートを出した人がいると知って、本当かどうか、三国志をあたったことがある。呉の孫権の死が「権以死」と書いてあって、別に非業の死ではないから、このレポートは間違っていると結論できた。その時、豪族たちの死が「薨」「卒」で表されていて、「死」という文字がほとんど無いと気づいた。

 通典を翻訳したのは、礼制により、身分ごとに死の表現法が細かく定められていたのが良くわかるからである。敬意を持てない場合に「死」が使われるのかもしれない。こちらは日本の古代史解明のために中国文献を調べるという立場だから、そんなに細かいところまで立ち入る気にはならない。いや、もう十分細かいところまで立ち入っているか。こんなに深入りするとは思わなかった。

 hyena-no-papa氏は「物故」の意味を尚書曹に説明する高堂隆の項しか紹介していないが、その場には明帝もいたのである。臺という文字を軽んじるわけにはいかないだろう。

 魏臺訪議に関しては、これで終わりかなと思う。

2020年10月9日金曜日

邪馬壱国説を支持する史料と解説 に訂正文を付け加える

  魏臺訪議に関する間違いを修正。訂正という形で、ブログ文に書いたことを「邪馬壱国説を支持する史料と解説」の最後に付け加えた。

 結論は変わらないものの、信用して読んだ人は最後でどんでん返しを食らうわけだ。こちらの思考の經緯がよくわかるので、この形でも良いかなと思う。

2020年10月7日水曜日

魏臺訪議に決着。すっきりできた。

hyena-no-papa氏のブログで次の文を見つけた


尚書曹訪云:「官僚終卒、依礼各有制。至於其間、令長以下、通言物故、不知物故之名本所依出。」高堂崇曰:「聞之先師、物、無也。故、事也。言無復能於事者也。」(注:避諱で崇←隆)

質問したのは尚書曹であって皇帝ではない。

「魏臺訪議」という書物には、高堂隆の受けた質疑が収録されているが、皇帝の下問もあれば小役人から聞かれて答えたことも書いてある。

史記集解では「高堂隆答魏朝訪曰」となっており、魏臺=魏朝。

つまり「魏臺」は魏の公務全般を包含するのです。


 確かに「通典 巻八十三 禮四十三」に書いてある。尚書曹の役人が「官僚が死んだときは卒で、礼によって決まっている。令長以下はみな物故というがその言葉の出所がわからない。」と訪ねている。

 この主張は正しい。こちらは関連文書を修正せざるを得ない。よほど漢文データに詳しい人なんだろう。ちょっとマークしてみるか。

 しかし、魏臺訪議とはっきり書いていて、魏の時代には「魏臺」という表現があったわけである。タイ音の文字は他にいくらでもあるのに、★「明帝を含む魏の朝廷を表す重要な文字を蛮夷の国名に使うか?」という疑問は全く解消されないのである。古田氏のような「至高の文字」なんていう大げさなもの言いには取り合わないけれども。例文では、当時の玄宗の諱をさけるため高堂隆を高堂崇に変えている。

 魏志には邪馬壹国に加えて壹與が三回、計四文字の壹があって、「臺に詣る」と臺が書き分けられている。壹のすべてを書き間違えとすることができるのか? すべて元は臺だとしたら、他の文字はみんな見えているのに、飛び飛びにあるこの四文字の臺だけが都合よく見えにくくなって間違える確率はどれくらい?

 帯方郡使、張政の帰国を送った壹與の遣使は魏の滅亡二年前、陳留王奐の景元四年(263)と考えられる。(「魏志倭人伝から見える日本3-h、壱与の即位と張政の帰国」参照) 陳留王は十七歳、帝としては機能していなかった。壹與の使者が「臺に詣った」ということは、陳留王を含むかどうかはわからないが、朝廷に至って面会していわけである。臺という文字を軽く見ることはできないだろう。

 古田武彦氏やそれを支持した私の「魏臺は明帝」だという主張は否定されたのだが、★印を付けた根本的な部分で何も変わらない。「明帝」が「明帝を含む朝廷に変わった」だけである。


この文もコピーして「邪馬壹国の訛」の項の最後に貼り付けておいた。

サイトの関連文の書き直しが面倒だな~ 

2020年10月5日月曜日

邪馬壱国説に関して

  魏志「邪馬壱国説」に関して、塚田敬章氏批判なんて書いている人がいたので、その批判の薄ペッタさを示すために、何度かこのブログに書いていたが、わかりやすくするために一つに統合しておいた。批判と言うにはこういう内容が必要だよということも示して。

 古田武彦氏は評価していないが、正しいことを言っているなら認めるさ。自分の思い込みだけの文章は書かない。私のほうが公平なんだ。

 古田氏の魏臺訪議に関する主張を覆せない限り、自動的に邪馬壱国説が成立してしまうのだが、そのことを認識していないのか? 都合が悪くて逃げているのか? 数十年経つのに未だに反論らしきものを見たことがない。

2020年9月17日木曜日

神功皇后の実在を支持する史料

         「魏志倭人伝から見える日本、1,邪馬台国や邪馬壹国か」より

【晋書安帝紀…「この歳(義煕九年、413)、高句麗、倭国及び西南夷銅頭大師、並びて方物を献ず。」《方物=地方の産物》

 以下の注が入れられています。

 「御覧九八一、義煕起居注曰く。倭国は貂皮、人参等を献ず。詔して細笙、麝香を賜う。」 

 この記述自体は太平御覧(983)、巻981の「麝」の項に見られるものです。起居注とは天子の日常の出来事を記録した文書をいいます。

 倭国が方物として、貂皮や人参等の朝鮮半島の産物を献上しました。そして、高句麗、広開土王碑には、「辛卯の年(391)、倭が海を渡り来て、百済、■■、新羅を破り、以って臣民となした」という記述がみられます。神功皇后が新羅、百済を属国にしたという記、紀の記述にぴったり結びつき、全てが真実であることを示しています。日、中、韓、三つの国の無関係な史料が同じ方向を指しているのです。東晋へ遣使した413年の少し以前に畿内へ進出し、神功皇后の政権が安定したと思われます。】


 貂皮、人参という韓半島の産物を自国から出たものだと中国に届けている。百済、新羅を領有するに至ったというアピールであろう。

 宋書倭国伝の倭王讃より十数年先立つ遣使である。倭王讃は上表しているから自身の名を書いただろう。讃の意味はほめる(古語は「ほむ」)であるから、ホムダワケという応神天皇の名に一致している。自らの名を表すのにふさわしい好字を選んだと考えられるのである。それに先立つ遣使なら、応神天皇の母、神功皇后の遣使と解するのが妥当ということになる。

 こういうデータ間の整合性があって主張しているのに、読まない人間が多いようだ。理解を拒否しているのか?

 翰苑の神功皇后に関する記述にも貼り付けておいた。

 日本の古代史を研究しているのだから、解明のためにあらゆるデータを使う。「記、紀」を照らし合わせることで真実が見えてくる。中国史書のみで日本史の解明は不可能である。「記、紀」を捨てたら身動きできなくなるよ。古田武彦氏のように。

 聖徳太子に関するもの以外、サイトに出しているレポートはすべて「弥生の興亡」を支える資料で、主張の根拠を明らかにしている。全部書き込むと読みづらくなってしまうのでね。

2020年9月13日日曜日

児童公園に雑草はびこる

 近所の児童公園の砂地の平坦地に雑草がはびこってきた。市の職員らしき人がゴミ拾いしていたが、草抜きまではやらない様子。生まれて以来、暮らしている土地だが、公園が緑のまだらになる光景を見るのは初めてである。他の児童公園というのは思いつかないから、かなり離れているのだろう。近隣の子どもたちが集まってくる場所である。中で走り回っているから、さすがの雑草も生えられなかったのだと今さらながら気付かされた。コロナ肺炎による子どもたちの遊びの自粛もかなりのものだ。

 「弥生の興亡」を公開してから二十年経った。検索エンジンに優遇されていると感じるし、けっこう読んでもらえているようだから成功と言えるのではないかな。

2020年9月12日土曜日

おでん

  久しぶりに「おでん」を作った。子供の頃は「関東炊き」と言っていたのに、自分の中で、いつの間にか「おでん」に変わっている。標準語が負けてしまった。 

 カツオ出汁+昆布出汁に、しょう油、ミリン、料理酒、砂糖を加え、具材を入れてグツグツ煮る。味は合格だが、汁が薄汚く濁っている。二、三十代に通った飲み屋の「おでん」の汁は無色透明だった。それでいて味はしっかりついている。友人に指摘されるまで、そんなことは気にしたこともなかった。作り方を聞いておけばよかった。世間話をするような間柄になっていたから、多少は教えてくれたのではないか。色が付いていないということは、しょう油を使っていないはず。塩とか色々調整して作っていたのだろうな。ネットでググったら、汁を濁らせないようにするには下茹でをする必要があるとのこと。手間ひまかけなければいけないんだ。下茹ですることで栄養素が逃げてしまうような気もするし。今後、どうするか。旨ければ良いんだし……

 ブログの背景画像を変更した。色々、遊べるようになっている。以前からそうだったのか?記憶がない。気分転換に時々やってみようと思った。

2020年7月19日日曜日

漢字の起源に「雷」を追加

 大量にデータを抱えていても、頭の中で結びつかなければ、知らないと同じこと。指摘されれば「しまった。そうか。」となるはずだが、「絶対にそんなことはない。」とムキになって否定にかかるかな。データ量からいえば、こちらが圧倒されているのだが。

2020年7月12日日曜日

ハエトリグモの巣

 便所の窓ガラスにクモの巣らしきものがあった。網ではないし餌を取れるのか? 取り除こうかとも思ったが、害はないし、面倒なのでそのままにしてあった。夜、ふと目をやったら、その主がいた。シルエットはどこら見てもハエトリグモ。
 ピョンピョン飛び回る姿しか見ていないから、巣を作るなんて知らなかった。朝はやはりいない。寝に帰っているらしい。家だな。いい家、持ってやがる。

2020年7月8日水曜日

漢字の起源に「日」「月」を追加

これまでの文字ほどの確信はないが、「日」「月」という文字が中国太古の伝承から生まれた可能性を示した。

2020年6月21日日曜日

パソコンの起動高速化に成功

 ここ三日ほど、雨、曇が続いて、半袖では肌寒く、今日も長袖シャツである。サブパソコンSDDの起動ドライブ化に手間取ってほとんど徹夜になった。
 ハードディスクのWidows10をSDDにコピーするにあたって、EaseUSやAOMEIというフリーソフトを使ったのだが、何度も失敗を繰り返した。最後はAOMIでなんとかコピーに成功。起動ドライブにするにはマザーボードBIOSの呼び出しが必要なのだが、これも何度も練習させられた。いじっていれば解ってくるものだ。
 せっかくOSをSDDに移したのに、最初の何回かの起動では、これまでと同じで五分くらいかかった。何も変わらんと首を傾げたし、がっかりもしていたが、しばらくしてから劇的に早くなった。メインパソコンに劣らない。そのあたり、OSの入ったハードディスクがつながったままとはいえ、指示通りに動かなかったのは謎である。パソコンになにか記憶が残っていたのであろうか。
 コピーの際の、間違いの可能性を減らすため、ハードディスクのアプリやデータを削除した。これからそれをインストールしなおして快適に使えるようにするという作業が残っている。目下のところメインパソコンとデータの共有ができないのが悩みだ。メディア関係ならできるようだが、会社などで一番必要なのはドキュメントの共有であろうに。マイクロソフトの考えることがわからない。WinXP時代の方が簡単だった。
 電源とSDD関係で20000円ほど使ったが、パソコンの安定化、起動の高速化に成功して、サブパソコンの寿命が五年ほど伸びただろう。CPUはインテルCore i7、2600の3.4メガヘルツである。もったいないくらい高機能だ。傷んだ中身を取り替えながら、全く別のパソコンになるかもしれない。Windowsが新しいものを買えと言ってくるかな。パソコンに付属していたOSなので、中身が全く違うとなると。そのあたりはマイクロソフトも抜かりがあるまい。

2020年6月15日月曜日

SDDをパソコンに認識させる

 電源の交換でサブパソコンが完全復活した。もっと早く気付いていればと思う。安心したところで気になりだしたのは、電源ポタンを押してから使えるようになるまで五分かかるという起動の遅さ。インスタントラーメン作れるわ。メインパソコンはOSがSDDに入っているので、画面を眺めながら待っていられる。
 こっちもSDDだなと日本橋へ出かけて、パソコン工房でウェスタンデジタルの500GB、SATAコード、2.5→3.5インチマウンタを買い求めた。9218円だった。
 3.5インチベイにSDDを装着し、電源、SATAコードも接続、ネジ止めやコード接続に手間取ったが、ここまでは頭を悩ませることなく作業が進む。
 あとはソフト的な作業である。パソコンを起動。デバイスマネージャーを呼び出して、ディスクドライブをクリック。正体不明のドライブが現れるはずなのに、ネット情報と話が違うじゃないか。認識されているのはハードディスクのみ。ハードディスクが日立製なのは初めて知った。何で?何で?とBIOSを調べたら、ちゃんと認識されていた。製品の不良ではない。Windows10がSDDを認識してくれないのである。他社製品だったらどうなのか。安いやつを選んだからダメだったのか。ウェスタンデジタルはアメリカじゃないか。自国製品を認識しないとは、マイクロソフトに愛国心はないのかとか、考えたり罵ったりしても事態は動かない。ないもの扱いなんだから。
 どうしようもないと諦めてパソコンをシャットダウンしようとしたとき、Windowsのアップデートをしたらどうかと思いついた。設定の更新とセキュリティを調べたら、更新待ちになっていたので、インストールする。長々と一時間くらいやっていたから、かなり根本的な更新だったのだろう。
 終わってから、「期待するな、期待するな」と唱えながら、デバイスマネージャーを起動、ディスクドライブを調べる。「オー!! 」2つになっている。勝手に設定画面が現れた。手順を教えてくれるサイトで確認しながら設定を進めて、SDDをフォーマットする。これで完了。エクスプローラでも認識されてEドライブとして現れた。あとはWindow10をSDDにコピーし、こちらを起動ディスクにするという作業が待っている。
 しかし、すんなり行ったことがないな。いや、すんなり行った時は記憶に残らないんだろう。

2020年6月10日水曜日

パソコン電源の交換

 サブパソコンを使おうとしたが起動できない。Win10を読み込む途中でストップしてしまった。突然のシャットダウンの原因トップに電源不良が挙げられていたから、これはやはり電源の交換だなと腹が決まった。
一応、予想の範囲内で、購入機種も決めてあった。AntecのNeoECO750 GOLDだ。ネットでずいぶん誉められていたけど、これがステルスマーケッティングなんかでないことを願う。
 二日前の偵察活動を生かし、PCワンズで値段を見てから、パソコン工房へ行く。こちらが1000円ほど安かったので購入。税込みで9980円だった。
 古い電源のネジを外して、あたらしいものを同じ位置に据えるだけの簡単な作業だが、コードの接続がややこしい。全部済ませて、「さあ!」と気合を入れてボタンを押しても何事も起こらない。不良品つかまされたかと心が乱れる。ネジを外し、取り出してもう一度チェックすると、宙に浮いた一本のコードがあった。こいつかとコネクタを接続し、再び電源をネジ止め。電源ボタンを押す。動き出した。
 今日のところは無事使えた。これが続けば、不調の原因は電源と確定するが、まだ油断できない。部品すべての交換も視野に入っている。

2020年6月5日金曜日

魏略の文章構造分析を追加

魏志倭人伝(原文、書き下し文、現代語訳)、倭国伝の変遷、魏略逸文に、魏略の文章構造の分析を追加。

2020年5月31日日曜日

Aimp の Milkdrop 問題、解決

 Aimp + Milkdrop をなんとか復活させられないかと、Aimpのバージョンを4.12に戻す。Windowsまで道連れにすることはなくなったが、いきなりストップして画面から消えてしまう。すこし症状が軽くなった程度で、使えないことには変わりない。ドライバはどうかとデバイスマネージャでビデオドライバを調べたら最新版が入っていて問題なし。サウンドドライバはと、Sound Blasterのドライバ更新をやったら、新しいものが見つかって、ダウンロード、インストールをやってくれた。
 それ以降、全く問題なく使えている。サウンドドライバの問題であった。Aimp をバージョンアップして最新版にするかどうか、迷っている。以前は使えていたけど。
 しかし、こっちは何もやっていなかったんだぞ。快適に使えていたものが、いきなり使えなくなる。その解決法を自分で見つなくてはいけないとはハードルの高い道具だ。使用歴が長いから色々試みる勇気があるけれども。
 解決できるだけ、マシな道具とも言えるのかな。

2020年5月21日木曜日

「aimp」から「winamp」へ移行

「aimp」+「milkdrop」を使っていると、Windowsがクラッシュして再起動という場面が頻発するようになった。こちらは何もしていないから、原因として考えられるのはWindowsのアップデートしかない。自力での回復は不可能と思える。
 活動再開を伝えられていた「winamp」はどうなったかなとググってみれば、新バージョンの5.8が出ていた。さっそくダウンロードしてインストール。試してみたところ、問題はないもよう。こちらの耳はあんまり当てにできないが、音も良くなっている感じ。mikdropは元々winampのプラグインだから、こちらとの相性の方が良いのは当たり前である。
 Windows7時代になって、人気No1ソフトだったwinampがまともに動かなくなり、開発も放棄された。代替ソフトを探してaimpに行き着いたのだった。今回も代替ソフトがあってよかった。
 土台を勝手に替えられてしまうから、上に乗せるソフトの作成者も大変だな。

2020年5月9日土曜日

「中国朝鮮史から見える日本4」の記述を一部訂正

 魏志韓伝に「辰王は月支国に治す」とあり、辰韓伝には「その十二国は辰王に属す。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作り、世々相継ぐ。辰王は自立して王となるを得ず」と書いてある。魏志韓伝の原文と解説のために翻訳しているとき、辰王は月支国に役所を置いているだけで、月支国王ではないと気づいたのだが、関連する「中国朝鮮史から見える日本4」の記述を変更するのを忘れていた。訂正してUP.

2020年4月27日月曜日

キーボードを替える

 一年ぶりにキーボードを替える。マウスパソコンのPS2コネクタが不良品らしく、PS2キーボードを使うことができなかったのだが、PS2-USB変換コードを買ってつないだら、あっさり認識された。これで古いキーボードがすべて復活だ。喜んでWin95時代のIBMアプティバ付属のキーボードを使いだした。このキーボードの何が気に入らなくて新しいものを探しはじめたのだろう。それが今となってはわからない。同じキーボードを使っていると飽きてくるんだろう。時々替えたくなる。
今更ながらだが、日本橋で、千円程度で買った無印キーボードのレイアウトとそっくりなことにを気づいた。色やキートップの形、重さなどは異なるが似ている。裏を見たらどちらも「made in Thailand」と書いてあった。同じ会社の商品らしい。ということは無印もかなり長持ちしそうだ。
 一番評価していた HELMES-E2 ずっと使ってないよ~。一度、接続すると付け替えるのが面倒になる。しばらくアプティバでいくだろう。

2020年3月4日水曜日

「倭国伝の変遷(魏志から旧唐書まで)」をUP

「倭国伝の変遷(魏志から旧唐書まで)」をUP 
http://www.eonet.ne.jp/~temb/9/hensen/hensen.htm
 
魏志から旧唐書倭国伝まで、日本関係の記述がどのように変化していったかを追求。編纂者の思考が読み取れる。完璧とはいかなかったが、採用資料ごとに文字を色分けしてあるので、変化がわかりやすいと思う。

新型コロナ肺炎が世界的な流行になってきた。気は若くても爺さんだから、取り憑かれたら大変なことになるかもしれない。さりとて、こうじる対策があるわけでもなし。自分の幸運を祈るだけだけれど。みなさんもお気をつけて。

2020年1月18日土曜日

顎関節症

 何日か前から顎関節症になって、顎を動かすたびに擦れてカクンとなるし、痛むし、気になってしょうがなかった。帰宅後、ネットで顎関節症を調べる。顎だけではなく、首筋や背中、場合によっては足などの筋肉や骨のバランスが影響している場合があるということで、顎のまわりの筋肉をいろいろ押してみる。頬骨下の筋肉を強く押してみると、あっという間に症状が軽くなったのである。ちょっと驚いた。
 それまで関節まわりは盛んに押していたのだが、まったく効果がなかった。鼻近くの筋肉を押すのが一番効果的だった。歯を治療して顎の筋肉の動かし方が変わったのかもしれない。その疲れが細かな筋肉に出たということだろうか。無関係に思えることが肝だったりして、漢方医学というのはこういうことを追求しているのかな~と薄っすら感じる。まだ、動かし方によって関節が擦れることはあるが、度合いが小さいので、食べることに不安を感じなくなった。

2020年1月6日月曜日

後漢書「邪馬臺」の李賢注「邪摩惟音の訛り」に関して

【塚田敬章氏のサイトを覗いていて、こちにへたどり着きました。要点は一つです。「2. 邪馬台とヤマトの関係」の段の前半、つまり塚田説批判は、まさしく同感です。塚田説では「今名」が何なのか不明です。永井俊哉様の仰るとおり、李賢の生存年代に照らして「今名」が『隋書』『北史』に明記されている「邪靡堆」「邪摩堆」であることは明白です。つまり、李賢注の「邪摩惟」は「邪摩堆」の誤写されたものと考えるほかありません。実際に、唐中期の『通典』でも「邪摩堆」ですしね。】

 上記は「倭人伝への旅」というブログで見つけたhyena_no_papaという人の投稿文である。塚田説では「今名」が何なのか不明ですと言われても、邪馬臺(ヤマタイ)国に入っている注なのだから邪馬臺国に決まっているじゃないか。注はそれ自体独立して存在する文ではない。書いてあるものを補足するために付加されているのだ。
  范曄が後漢書で邪馬壹を邪馬臺に修正した(これは晋書安帝紀にある倭王の遣使データから得たのだろう)。その後、遣隋使、遣唐使の渡来によりヤマトが都であることは広く知れ渡り、音の近い後漢書が正しいと考えてヤマタイを受け入れているのである。唐代の注だから今名は邪馬臺である。べつに邪摩堆(ヤマタイ、これは日本に渡来した裴世清の報告にあった文字ではないか)でもかまわない。それが常識になっているから、唐代に書かれた隋書は倭国の過去を記述するにあたって、魏志を信用せず、記述内容の少し異なる後漢書を引用している。 そういうことを全部書いているのに、凝り固まった人は受け付けないのだな~。「魏志倭人伝から見える日本」を読んでいないのかな?

 【そもそも、「邪馬壹」なる表記は、現存南宋刊本に至るまでの間、中国の文献に一切登場しません。『魏志』を引用・参照したと思しき諸典籍はいずれも「臺」です。このことは、「壹」が宋代になってから出現したと考えることの妥当性を明白に示していると言えるでしょう。】

  書物はすべて伝世して書き継がれたものだし、研究者は研究の成果を発揮して平気で文字を書き換えるので、そんなことは当てにならないのである。隋、唐以降の編纂者、著述者には倭国の都はヤマト(邪馬臺)だという知識がある。おおまけにまけて隋、唐以前の引用で邪馬臺と書く文献があるなら受け入れることを視野に入れる。 
 単純に書き写されてきた魏志倭人伝本文に邪馬壹(ヤマイ)と書いてあるから問題になる。そこには引用者の意思は入らない。そして、後漢書の邪馬臺に唐代の李賢が邪摩惟(ヤマイ)音の訛りだと注を入れている。 魏志が邪馬臺(ヤマタイ)あるいは邪摩堆(ヤマタイ)と書いているなら注を入れる必要がない。邪摩堆も文字は異なるが音は同じである。 邪摩惟(ヤマイ)という音をどこから引っ張り出せるのだろうか。
 邪摩惟を邪摩堆の誤写とするなら、邪摩堆が同音の邪馬臺の「音の訛り」だという注は成り立つのか? 「訛」は言葉(音)が間違って変化したことを表す文字で、文字の間違いを言うものではない。その主張が整合するには臺と堆が異音であることを証明する必要がある。 同時代の漢詩の韻を調べて違いを発見することだね。こちらは李白の詩の韻を調べて同音だと言っている。「開、廻、灰、臺、堆、哀」である。都合よく臺と堆が並んでいる。 「ai」という韻母でなければ韻を踏めない。
 以上のようなことから、唐代の魏志には邪馬壹と書いてあったという結論を出した。魏志の邪馬壹を邪馬臺に修正して考える必要があるのか、卑弥呼から倭の五王に至るまでの間に、王朝交代により邪馬壹から邪馬臺に国名が変更された可能性がある。魏志の邪馬壹をそのまま使用すべきだというのが私の主張である。
 つまり、弥生時代から古墳時代前期に至るまで、ヤマトという国名ではなかったと言っているのだ。ヤマトに上書きされ消されているから、日本の史料からの証明は不可能だけれど。
 しかし、卑弥呼の後の女王が壹與(イヨ)であることに関してはデータがある。唐代に記された梁書にある臺與(トヨ)ではない。ホームページ、補助資料集の「村屋神社」に関するレポートを読まれたし。 魏志にある壹與から、臺與への書き換えは、魏志にある壹は臺の誤りだと考えられ、修正された証左とできる。
 魏志は「臺」を「壹」に書き間違え、後漢書李注は「堆」を「惟」に書き間違え、魏志で三回書かれている壹與の「壹」もすべて書き間違えって、自分に都合の良い書き間違えを何度想定していることやら。それをおかしいと思わないのかね?自分自身を説得できるのが不思議だ。
「邪馬壱国説を支持する史料と解説」に邪馬臺に入っている注という一文を加える。ついでにトップページに後漢書倭伝原文へのリンクを付け加えた。


 4月25日 
【「邪馬壹国説」を支持する史料とその解説】に次の一文を付け加える。
 後漢書が魏志を要約しているのは誰の目にも明らかなのに、魏志の邪馬壹が後漢書では邪馬臺に変化している。音があまりにも異なるので、注の必要を感じたのではないのか。
「唐代(今名)の邪摩堆は後漢書の邪馬臺の訛りだ」という読み、解釈*では、魏志とは関係がないことになってしまうのです。魏志が「邪馬壹」か「邪馬臺」かは全くわからないことになります。要約している一連の文章中における二書の食い違いの説明。魏志との比較で注を入れたとみるべきでしょう。(*後漢書「邪馬臺」の注「案ずるに、今名邪摩堆は音の訛り也」)
 裴世清の聞き取りにしても、遣隋使、遣唐使等からの聞き取りにしても、日本人が都は「ヤマト」だというのを聞いて中国の文字で表記しています。聞き取りと文字表記という二つの変換過程があり、完璧な写しなどありえない。ヤマトに対して、邪馬臺、邪摩堆、どちらの表記を採るにしても違和感はないでしょう。魏志に邪馬壹(ヤマイ)と記されていて、明らかに異なるから、その理由を考えて注を入れたのです。ヤマトの音訳に今の中国語訳は訛っていると書くだろうか。」
 したがって、邪摩惟は邪摩堆の誤記ではない。 書き間違えを五回も六回も想定しなければ成り立たない論に説得力はない。
 hyena_no_papa氏は、史書の版本の年代を基準に文字の推移を考えているようだが、現在見ている書は古代に発行された書そのものではない。すべて書き写されたり、版をつくりなおしたりして現在まで引き継がれている。その過程で誤写が起こる。現在伝わっていないだけで、同一本でも誤写のないやつが残っていたかもしれない。すべての書にわたって様々なケースが出てくる。北宋本と言ったって、北宋時代の実物が残っているのではないのだ。同一系統の「堆」と記す書しか存在せず、すべて正しく引き写されてきたという前提がなければ成り立たない主張である。それは誰にも証明できない。
 それに加えて、編纂という作業も理解していない。編集者は文字の間違いだと思ったら正しいと考えるものに置き換えるのである。隋、唐以降は後漢書の邪馬臺が正しく、魏志の邪馬壹は間違っているという結論を出していたのだ。
 でも、後漢書に注を入れた李賢は異を唱えた。魏志も正しい。文字を間違っているのではなく、後漢書の記された宋代には、魏志の「ヤマイ」から「ヤマタイ」へ音が変化していたのだと考えたのである。「案今名邪摩堆音之訛」という注なら必要ない。「邪馬惟音之訛」でなければならない。 何を言っても耳に蓋をする相手であろうとは思うけれど。

 「魏臺訪議」に対する反論は見たことがないな。これも古田武彦氏の主張だから数十年経っている。都合が悪くてみんなスルーしているように思える。


 9月21日  
 隋書俀国伝には「邪靡堆を都とする。すなわち、魏志謂うところの邪馬臺である。」と記されている。北史(659)では「邪靡堆」が「邪摩堆」になっている。
 北史は隋書からの引用と思われる同文なので、隋書にも元々は邪摩堆と書かれていたと推定できる。
 ということは後漢書の李賢注(676)の頃、倭の都の「今名」は「邪摩堆=邪馬臺(ヤバタイ)」で、文字表記は異なるが、同じ国だと言っていることになる。これが当時の常識だっただろう。唐がエネルギーを注ぎ込んで完成した隋書がお墨付きを与えているのだから。
 後漢書の邪馬臺国に「案今名邪摩堆音之訛也」と注されていて、「案ずるに、今名、邪摩堆は音の訛なり」と読むなら、今名は「邪摩堆=邪馬臺」であるから変化がない。注に意味がないのである。
 どちらも中国人が倭人の発音を聞き取って漢字表記したものである。現代中国でコカ・コーラを「可口可乐」と書くようなものだ。
 神功皇后以降(413遣使、東普義煕九年)、倭人はずっと変わらず「ヤマト」と発音していたはずで、倭の国名は変わっていない。後漢書に記された東普の文献にあった文字と思える「邪馬臺」、魏志から後漢書までずっと邪馬臺だと考えていたのだから、魏代の聞き取り表記、音訳に対し、今(唐代)の音訳は訛っていると注していることになる。
 「邪馬臺」「邪摩堆」は倭人が書いた国名ではないのである。ずっと以前から言葉の違う周辺諸国と交流し、その地名や名前、言葉を漢字表記してきた。中国語で表記する上での誤差を認識していないはずはない。多少発音が違ったとしても、邪摩堆、邪馬臺程度のことを問題視するようには思えないのである。案じなくても普通にわかるだろう。同じ文字に対する発音が中国内でも地方ごとに異なっているのに。
 隋書は「魏志いうところの邪馬臺」と書くが、李賢の見た魏志には「邪馬壹国」と書かれていたわけで、だから、魏志から後漢書までの間に音韻の変化があった。後漢書の邪馬臺国に「ヤマイ音の変化」だという注が必要だと判断したのである。
 したがって注は「案今名邪摩惟音の訛也」が正しく、魏志との対比で、「今名(邪摩堆=邪馬臺)を案ずるに、ヤバユヰ音の訛なり。」と解するしかない。元々の「邪馬壹」も発音記号的な表記なのだが、邪摩惟は「邪馬壹」の発音記号として書かれている。当時、主流になっていたこちらの文字の方がわかりやすいという配慮だろう。

  魏志倭人伝の壹與は正しい、臺與ではない  魏志倭人伝には、「女王、卑弥呼が死んだあと、男王が立てられたが国内には不満が多く内乱が起こった。卑弥呼の宗女、十三歳の壹與(イヨ)を立てることでそれが収束した。」と記されている。梁書は臺與(トヨ)と記しているから、魏志は間違いだとする人も多い。
 崇神紀にある、三輪山の大物主神の妻となり、不思議な死に方をした箸墓の主、ヤマトトトビモモソ姫が卑弥呼であろうとは多くの人が指摘しているし、私もそう考える。
 もう一人、大物主神の妻となった人物(神)がいて、三穂津姫という。こちらは紀の神代に記されている。要するに三穂津姫はヤマトトトビモモソ姫と同格、大物主神の妻なのである。ヤマトトトビモモソ姫が卑弥呼なら、三穂津姫に卑弥呼の後継者、壹與が投影されていることは容易に想像できるであろう。
 その三穂津姫を祀る神社が奈良県の田原本町にある村屋坐弥冨都比売神社で、集落名はイヨドという。
 単に土地の名前がイヨに一致すると言っているのではない。イヨやトヨなどと付く地名はいくらでもある。三穂津姫を祭っているかどうか。壹與と目される卑弥呼と同格の神、三穂津姫がイヨドという土地に祭られていることが重要なのである。三穂津姫がイヨと結びつく。卑弥呼の後継者は壹與(イヨ)であり、梁書の記す臺與(トヨ)ではないという結論が出せる。
 ★伊予国の別名が愛媛(可愛い姫)であることも難なく説明できる。おそらく壹與という名は地名から採られたものだろう。
 伊予と大和の強い結びつきを示す伝承もある。
 ★伊予国風土記逸文 
 「伊予の郡、郡のみやけより東北のかたに天山あり。天山と名づくるゆえは、倭(やまと)に天加具山あり。天より天降りし時、二つに分かれて、片端は倭の国に天降り、片端は此の土(くに)に天降りき。因りて天山と謂う、ことのもとなり。(其の御影を敬禮ひて、久米寺に奉れり。)」 

 臺與(トヨ)説をとれば、こういうこと★は「訳がわかりません」というしかないであろう。間違った方向へ足を踏み出せば、矛盾が吹き出して、後が支離滅裂になる。歴史を語れない。見ないふりをしてごまかしても、世間はデータを知っている。自らの価値を落とすだけなのである。ネット公開して誰でも読めるわけだから、世間が評価を下してくれるだろう。 

 おそらく義煕九年(413)の倭王の遣使の史料が残っていたのであろう。後漢書は魏志の邪馬壹国を邪馬臺国に修正した。裴世清の倭国への派遣や、遣隋使の到来により、都は邪摩堆であることが確認され、魏志にある「壹」は間違いで、後漢書の「臺」が正しいと結論された。したがって、唐代以降の書物の引用にはほとんど邪馬臺(邪摩堆)国と記されることになる。
 唐代に編纂された隋書は魏志を信用せず、後漢書を引用しているし、同じく、唐代に編纂された梁書は壹與まで臺與に修正してしまったのである。


 魏臺訪議の魏臺は明帝である
 隋書経籍志二(巻三十三)に、高堂隆撰、魏臺雑訪議三巻が見られる。
 魏志には高堂隆伝がある。高堂隆(?~237)は明帝の傅(守り役)となり、光禄勲で生涯を終えた。厳しい儒者だったようで、明帝の身近にいる人だった。上表して諫言したことや、明帝の下問に応答したことなどが記されている。
 魏臺訪議の内容はということになるが、断片しか残っていない。訪議は「質問して相談すること」。魏臺訪議は残された断片を読む限り、明帝と高堂隆の問答集と思われる。雑(いろいろな物が入り交じった)を加えて、魏臺雑訪議という書名になったようである。高堂隆伝にある明帝の下問とそれに対する返答は、魏臺訪議からの引用かもしれない。
 蜀書、劉二牧伝第一の「物故」という言葉に裴松之(南朝宋代)が注を入れている。
「魏臺訪物故之義高堂隆答曰聞之先師物無也故事也言無復所能於事也(魏臺、物故の義を訪う。高堂隆、答えて曰く…)」 
 「魏臺が死のことを物故というのは何故だと尋ねた。高堂隆が、私の先生に聞いたことですが、物は無で、故は事です。事に於いてまた能くする所の無い(何も出来なくなる)ことを言いますと答えた。」という意味らしい。
  史記匈奴列伝の「物故」にも、索隠注(唐代)が「魏臺、議を訪う、高堂崇、対えて曰く…(魏臺訪議高堂崇対曰聞之先師…)」と、名前を間違っているが、同じ文を引用している。
 後漢書儒林列伝(上)の「物故」の注(唐代)にもある。「在路死也。案魏臺訪問物故之義高堂隆合曰聞之先師…(在路死なり。案ずるに、魏臺、物故の義を訪問す。高堂隆、合いて曰く、これを先師に聞く…)」
 「路上死である。案ずるに、魏臺が物故の意味を訪ねまわった。高堂隆が会って言った。これを先師に聞いたのですが…」という意味になる。
 太平御覧(宋代)巻三十三、時序部十八では、明帝の祭祀に関する問いに高堂隆が答えている。
 ★「高堂隆魏臺訪議曰詔問何以用未祖丑臘、臣隆対曰按月令孟冬十月臘先祖五祀謂薦田臘所得禽獣謂之臘」 (高堂隆の魏臺訪議曰く、詔して問う、なんぞ以って未祖丑臘を用いる。臣隆こたえて曰く、案ずるに月令、孟冬十月、先祖五祀に臘す。田猟して得るところの禽獣を薦めるを謂う。これを臘と謂う。)
 芸文類聚(唐代)巻五では次のようになっている。 
★「魏臺訪議曰帝問何用未社丑臘王肅對曰魏土也土畏木丑之明日便寅寅木也故以丑臘土成于未故于歳始未社也… (魏臺訪議曰く、帝問う、何ぞ未社、丑臘を用いる。王肅、対えて曰く、魏は土なり。土は木を畏れる。丑の明日はすなわち寅にして、寅は木なり。…)」と記されている。  
 太平御覧の質問と同じだが、王粛(195~265)という人物が答えている。魏、王粛撰の「魏臺訪議」という書もあり、その中の一節のようである。しかし、王粛著の「孔子家語」は偽作というのが定説で、王粛は少々いかがわしい人物であったらしい。元々存在した孔子家語を自説に都合の良いように改変して世に出したという。魏志王郎伝に王郎の息子として付け加えられている大物で、晋を建国した司馬炎の母方の祖父にあたるが、盗用の常習犯かもしれない。魏臺訪議も、高堂隆のものと回答が全く異なっており、自説に書きかえて、自らの著作のように装ったとみえる。
 そして、高堂隆の魏臺訪議が魏臺と表す質問者を、同じ魏の王粛は帝と表記しているわけである。 
 魏臺が明帝あるいは明帝その人ではなくても、明帝を含む朝廷に使う文字であるなら、魏の文献は、蛮夷の国を表すのに臺という文字を使えないだろう。魏志の邪馬臺国はありえない。文字の転写間違いではなく、邪馬壹国が正しい。ここは、古田武彦氏の判断を承認せざるを得ないわけである。
 タイという音の文字はいくらでもある。対とか帯、体、太など。hyena_no_papa氏は、百衲本の史記には「魏壹」と書いてあり、臺は壹へ移りやすい文字だと主張している。それなら「魏臺」が元の形で正しいのだろう。魏臺を認定していることになるのだが? 
 臺は高台を意味する文字である。魏志倭人伝には、壹與は使者を派遣し張政等の帰国を送り、臺に行って貢物を献上したことが記されている。中央政府のことを臺と表現している。後には臺城が皇居を表すようになった。明帝を魏臺と表す可能性は大いにあるわけである。「魏壹」にどういう意味があるのだろうか。
 古田武彦氏は魏志の文字をすべて調べ、臺と壹が間違われている例はないと書いていた。確認する気はないので、本当かどうかはわからない。大量の文献中の、文字の異同を調べ上げるのは根気のいる作業である。hyena_no_papa氏も根気強い人なのであろう。しかし、臺は壹に間違えられやすいという程度では反論のレベルに達していない。 
 私はそういう表面的なことにあまり興味がない。原典の文字がわからない。何種類の異本があったかもわからない。現在伝わっている本がどの異本を踏襲しているのかがわからない。現在の魏志には邪馬壹国と書かれている。それが一番古い一冊しかなかった書を写しているかもしれないのだ。現れた時代が一番古くても、新しい写本が元になっているかもしれない。何も決定できないのだから、今ある形を使えば良いと考える。
 私に対する批判というなら簡単である。 
 史料を揃えて、魏臺が明帝ではないことを証明すれば良いだけだ。あるいは、明帝を表す文字を蛮夷の国に使用しても儒教的に問題がないことを示すか。
 卑弥呼(ヤマトトトビモモソ姫)と同格の三穂津姫が卑弥呼の後継者の分身ではないことを論理を以って説明すれば良いだけだ。三穂津姫はイヨという音に結びつく。
 范曄の魏志倭人伝修正(邪馬壹→邪馬臺)、神功皇后による地名変更に反証すれば良いだけだ。
 魏臺訪議に関して、有効な反論ができないなら、自動的に邪馬壱国説が成立してしまうのだが、わかっているのかな? 都合の悪いことは見えないことになるのかな?


 10月7日
  hyena-no-papa氏のブログで次の文を見つけた 
 尚書曹訪云:「官僚終卒、依礼各有制。至於其間、令長以下、通言物故、不知物故之名本所依出。」高堂崇曰:「聞之先師、物、無也。故、事也。言無復能於事者也。」(注:避諱で崇←隆)
 質問したのは尚書曹であって皇帝ではない。 「魏臺訪議」という書物には、高堂隆の受けた質疑が収録されているが、皇帝の下問もあれば小役人から聞かれて答えたことも書いてある。 史記集解では「高堂隆答魏朝訪曰」となっており、魏臺=魏朝。
 つまり「魏臺」は魏の公務全般を包含するのです。

 確かに「通典 巻八十三 禮四十三」に書いてある。尚書曹の役人が「官僚が死んだときは卒で、礼によって決まっている。令長以下はみな物故というがその言葉の出所がわからない。」と訪ねている。
 この主張は正しい。こちらは関連文書を修正せざるを得ない。よほど漢文データに詳しい人なんだろう。ちょっとマークしてみるか。  
 しかし、魏臺訪議とはっきり書いていて、魏の時代には「魏臺」という表現があったわけである。タイ音の文字は他にいくらでもあるのに、★「明帝を含む魏の朝廷を表す重要な文字を蛮夷の国名に使うか?」という疑問は全く解消されないのである。古田氏のような「至高の文字」なんていう大げさなもの言いには取り合わないけれども。例文では、当時の玄宗の諱をさけるため高堂隆を高堂崇に変えている。 
 魏志には邪馬壹国に加えて壹與が三回、計四文字の壹があって、「臺に詣る」と臺が書き分けられている。壹のすべてを書き間違えとすることができるのか? すべて元は臺だとしたら、他の文字はみんな見えているのに、飛び飛びにあるこの四文字の臺だけが都合よく見えにくくなって間違える確率はどれくらい? 
 帯方郡使、張政の帰国を送った壹與の遣使は魏の滅亡二年前、陳留王奐の景元四年(263)と考えられる。(「魏志倭人伝から見える日本3-h、壱与の即位と張政の帰国」参照)
 陳留王は十七歳、帝としては機能していなかった。壹與の使者が「臺に詣った」ということは、陳留王を含むかどうかはわからないが、朝廷に至って面会していわけである。臺という文字を軽く見ることはできないだろう。 
 古田武彦氏やそれを支持した私の「魏臺は明帝」だという主張は否定されたのだが、★印を付けた根本的な部分で何も変わらない。「明帝」が「明帝を含む朝廷に変わった」だけである。