2023年11月9日木曜日

後漢書の「茹」の意味

 以下の文を「魏志倭人伝から見える日本2」に付加。

「茹」は食う、菜を食う意味。「わが国ではユヅと訓じ熱湯にて煮る意」と辞書にあります。中国語では「茹(ゆ)でる」という意味はない。

魏志にある「倭地は温暖にして冬夏生菜を食う」と後漢書の「気は温腝にして冬夏菜を生じ茹す」は、

後漢書が菜を茹(ゆ)でて食べていると言っているのではなく、魏志と同じ意味を別の言葉で語っているだけである。

わかりきった文字と思っていても、日本語とは意味が異なる場合があり、油断は禁物。漢文の解釈には「手間を惜しまず辞書を引く」という地道な作業が必須である。日本文のための漢和辞典では心もとない。漢文を読むための漢和辞典を。講談社の「大字典」がお勧めである。

後漢書の気「温腝」の「腝」は日偏の「日耎(ダン)=煗」(フォント無し)が「暖」と同じなので、転写間違いで月偏になったと考える。

2023年11月7日火曜日

ゴジラを見る

 一番奥のエスカレーターで四階へ上がると、左手が映画館だった。中へ入ると壁際に入場券の自動販売機が置いてある。ゴジラもやっていた。映画を選んでタッチパネルを押す。14:05分からのゴジラはガラ空きである。なんせ平日の昼間。座席も選べるようになっているのか。「ふーん!」とパネルで選ぶ。お一人様。2000円。最後に支払い方法。「現金はご使用になれません。」「ん・パァーン」見てやるもんか。三階へ降りて、タリーズコーヒーでアイスコーヒーを飲む。柔らかい椅子に座って、買ったばかりの本を読む。コーヒーを飲み終えたころには頭も冷えてきた。現金を使える券売機があるかもしれない。もう一度、映画館へ。四台の券売機のうち三台は現金が使えて、よりによって、一番奥の使えない券売機を選んでいたのである。ラーメン屋なんかでもタッチパネル注文、セルフ支払いになって、おじいさんは戸惑うばかりである。まあ、なんとか予定通り、ゴジラを見ることができた。

2023年10月31日火曜日

徐福のレポートに文章追加

 「徐福は日本に来たか、澶洲は何処か」がちょっと取っ付きにくい感じなので、徐福以前のデータや徐福問題のあらましなどを追加し、入りやすくした。隋書の秦王国のデータも追加。

日本史とは関係がないと解っている人がほとんどなので、あまり読んでもらえないようだ。

2023年10月20日金曜日

帯方太守、張撫夷のことを追加。

「魏志倭人伝から見える日本、3」の最後に帯方太守、張撫夷に関する以下の文を追加した。

このことは森浩一氏の「倭人伝を読みなおす」で知ったのですが、帯方郡治と目される北朝鮮の黄海道石城里の北方八キロにある方墳から「使君帯方太守張撫夷塼」「張使君」「大歳在戊魚陽張撫夷塼」「大歳申魚陽張撫夷塼」などの銘文のある塼が発見されており、戊申年(288)に亡くなった帯方太守、張撫夷の陵墓であることが明らかになっています。撫夷という名は「夷を安んじる」という意味だから、これは帯方郡使、張政が改名したものではないかと森氏は言います。確かにそう思われる。「使君」というのは倭に使者として派遣されたことを表すのだろうし、「張撫夷」と名乗れと晋から与えられたものではないか。魚陽という燕より北方の出身だから、日本はさぞ暑かっただろうとも思われます。壱与は魏を滅ぼした晋への怒りから交流を断ったのではなく、「大変だろうから、帯方郡と連絡していれば良いよ」と免除されたのかもしれません。張政が帯方太守に昇進して張撫夷と名乗っていたのなら、その可能性の方が強そうです。

死亡年は288年説と348年説があるということだが、288年で決定である。倭はまだ女王、壱与の時代が続いていただろう。正始八年(247)に帯方郡使として倭へ派遣され、十六年後の景元四年(263)年に帰国し、その後、帯方太守に昇進。晋の武帝(司馬炎)、太康九年(288)に死去したわけである。正始八年の41年後なので、倭に派遣された当時は、健康で活発な三十代と思われる。

2023年10月17日火曜日

古代史レポートのトップページ表題に言葉を追加

 口数の少ないぶっきらぼうな人間なので、口数不足、説明不足を感じることが多い。サイトのトップページの表題に関しても、見返してそれを感じたので、解りやすいように書き足した。パッと見て中身に興味を感じてもらえるような表題でなければだめだろう。

2023年9月13日水曜日

キーボードの改造

 これまで使わずに来たキーボードも、慣れれば変わりないんじゃないかと、ゲートウェイのWin7パソコン付属のキーボードを引っ張り出して使ってみた。Backspaceキーの上にあるキーを勢いついでに押してしまうケースがしばしばあり。用もない電卓ソフトが起動する。電卓は使い慣れたフリーの電卓ソフトを入れていて、OS付属のものを使ったことはない。不要なキーに作業を邪魔されるとイライラが生じる。「よ~し」ということで、キーを外し、抜け跡をセロテープで塞いだが不細工である。私の美的センスの許すところではない。キーの突起を切って元の位置にはめ込んでやった。キーが全く反応しなくなった。改造成功である。隣にも見慣れないキーがあり、こちらは押すとエクスプローラが起動する。下はほとんど使うことのない¥キーだから押し間違いはないし、便利かもしれないのでそのまま使うことにした。

2023年9月4日月曜日

和歌山県北部の大国主神・「魏志倭人伝から見える日本5、狗奴国と紀の国」の記述を修正

  海の季節ももう終りなので、和歌山へでも行くかと車を走らせる。走っているうちに有田市千田の須佐之男神社へ行ってみようという気になった。二十数年前に一度行ったきりなので記憶はほとんど残っていない。途中、下津町方の粟島神社の標識を見つけたし、初島町里という地名も見つけた。大国主神を祀る神社があると書いた土地である。帰りに寄ることにした。有田川沿いの国道42号線から離れて、千田という標識を頼りに進む。真っすぐの道だから迷うことはない。途中、道をまたぐ大鳥居があった。以前はこんなものはなかったはず。神社横に駐車場があって助かる。階段を上がった小山の上に神社がある。写真を撮りまくる。以前はデジカメなんてものが発明されていない時代である。今、劣化しないデジタルデータを残して置けることで、どれだけ助かっているか。ともかく、小山の上に神社があったということしか覚えておらず、初めての風景みたいだった。

 神社を出た後、先へ進むと海沿いの道になる。海遊びの用意はしていない。車を止め、しばし、海を眺めた後引き返す。

 初島町里のコンビニでおにぎりなどを買い、神社のありそうな場所を探す。寺があったので、あの山沿いはどうだろうかと、国道を外れて山の方へ向かう。行き止まりで、走りやすい方へ折れたら、二、三十メートルで鳥居が見えた。階段を上り、拝殿前へ行くと「国主神社」と書いてあったが、他は何もわからない。

 国道へ戻って、下津町の粟島神社へ向かう。国道に神社の標識が立っていたので、ここは手間取らない。踏切を渡ると道の横に鳥居が見えたが、ミカン畑しか見当たらない。ずっと先のようだと車を進めると、行き止まりに神社があった。縁起書きを読むと、祭神はスクナビコナ命である。困るではないか。何かで読んで、大国主神を祀る神社として挙げていたのに、その資料が間違っていたわけだ。三十年くらい前のことなので、何処から仕入れたのか全く記憶にない。

 帰宅してから、粟島神社を消し、それに合わせて記述を修正してUP。

2023年8月5日土曜日

保守的なのか機能的なのか

 ブログのテーマ変更機能で遊んでいたが、結局、代わり映えのしないものに落ち着いてしまった。背景に写真やパターンを入れたりすることもできるのだが、読むことを考えたら何もない方が文字に集中できる。文字そのものがパターンじゃないかってなってしまう。それ以上の変化は必要あるまい。自分は保守的人間なのか、機能的人間なのかと考えてしまう。

2023年8月3日木曜日

台与ではなく、壱与が正しいことを補強する文を追加。

「魏志倭人伝から見える日本3」の最後の項「その後の邪馬壱国」に、以下の文を追加。通説のいう臺與ではなく、壹與が正しいことを補強する。

 日本書紀(崇神紀)で、卑弥呼がヤマトトトビモモソ姫と表されるなら、壱与はどう表されたでしょうか。

実は、大物主伸の妻となった女性はもう一人います。高皇産霊尊の娘とされる美穂津姫です(神代下)。

この姫に壱与が投影されているのは明らかで、奈良県磯城郡田原本町の延喜式大社、村屋坐弥富都比売神社の祭神となっていますが、その所在地の集落名は伊与戸(イヨド)といいます。

物部氏の同族に伊與部がありますから、元、伊與部(イヨベ)であったものが、伊与戸と文字が変わり、イヨドと読まれるようになったと推定できます。つまり、美穂津比売はイヨ(壱与)なのです。

魏志倭人伝に壹與と書いてあるものを、臺與とわざわざ修正する通説が間違っていることになるわけです。それが邪馬壹と邪馬臺との問題にも帰ってゆく。

2023年7月30日日曜日

ヤブガラシの花

どこにでもある雑草。つる草である。アゲハ蝶が良く飛んでくるので、その存在は子供のころから知っていたけれど、名前なんか気にもとめなかった。

こんなにかわいい赤い花を付けていた。つぼみがたくさんあっても、ポツポツ順番にしか咲かないようで、全く目立たない。しかし、甘い蜜を出すらしく、虫たちは大好きである。ハナムグリを見つけて写真を撮り、初めて花が咲いていることに気がついた。