2020年10月24日土曜日

漢字の起源(白川静氏を買わない理由)に「去」を追加

  「字統」の文字解説にある白川静氏の祭祀に関する記述には、今更ながらだが、あきれかえる。文字解説のために自らに都合のいい祭祀を作り出すのだ。史料、根拠は見当たらず、氏の妄想の中にしか存在しない。こんなものに、自分でよくOKを出せるなと思うが、ボケていたのかな?古田武彦氏と同系の人だ。
 一時のブームも終わったので、これから徐々に淘汰されていく人ではあろうけど。

2020年10月11日日曜日

魏臺で行われた論議を翻訳してレポートに追加

  通典巻八十三・礼四十三・凶五にある魏臺(魏の朝廷)での論議を翻訳して「邪馬壱国説を支持する史料と解説」の最後に加えておいた。論議の発端は明帝の詔である。

 「邪馬台(壱)国北九州説の研究」で、森浩一氏の「倭人伝を読み直す」を分析して書いている時、中国文献で使われている「死」と「以死」の例を調べ、「以死」は非業の死に使われるというレポートを出した人がいると知って、本当かどうか、三国志をあたったことがある。呉の孫権の死が「権以死」と書いてあって、別に非業の死ではないから、このレポートは間違っていると結論できた。その時、豪族たちの死が「薨」「卒」で表されていて、「死」という文字がほとんど無いと気づいた。

 通典を翻訳したのは、礼制により、身分ごとに死の表現法が細かく定められていたのが良くわかるからである。敬意を持てない場合に「死」が使われるのかもしれない。こちらは日本の古代史解明のために中国文献を調べるという立場だから、そんなに細かいところまで立ち入る気にはならない。いや、もう十分細かいところまで立ち入っているか。こんなに深入りするとは思わなかった。

 hyena-no-papa氏は「物故」の意味を尚書曹に説明する高堂隆の項しか紹介していないが、その場には明帝もいたのである。臺という文字を軽んじるわけにはいかないだろう。

 魏臺訪議に関しては、これで終わりかなと思う。

2020年10月9日金曜日

邪馬壱国説を支持する史料と解説 に訂正文を付け加える

  魏臺訪議に関する間違いを修正。訂正という形で、ブログ文に書いたことを「邪馬壱国説を支持する史料と解説」の最後に付け加えた。

 結論は変わらないものの、信用して読んだ人は最後でどんでん返しを食らうわけだ。こちらの思考の經緯がよくわかるので、この形でも良いかなと思う。

2020年10月7日水曜日

魏臺訪議に決着。すっきりできた。

hyena-no-papa氏のブログで次の文を見つけた


尚書曹訪云:「官僚終卒、依礼各有制。至於其間、令長以下、通言物故、不知物故之名本所依出。」高堂崇曰:「聞之先師、物、無也。故、事也。言無復能於事者也。」(注:避諱で崇←隆)

質問したのは尚書曹であって皇帝ではない。

「魏臺訪議」という書物には、高堂隆の受けた質疑が収録されているが、皇帝の下問もあれば小役人から聞かれて答えたことも書いてある。

史記集解では「高堂隆答魏朝訪曰」となっており、魏臺=魏朝。

つまり「魏臺」は魏の公務全般を包含するのです。


 確かに「通典 巻八十三 禮四十三」に書いてある。尚書曹の役人が「官僚が死んだときは卒で、礼によって決まっている。令長以下はみな物故というがその言葉の出所がわからない。」と訪ねている。

 この主張は正しい。こちらは関連文書を修正せざるを得ない。よほど漢文データに詳しい人なんだろう。ちょっとマークしてみるか。

 しかし、魏臺訪議とはっきり書いていて、魏の時代には「魏臺」という表現があったわけである。タイ音の文字は他にいくらでもあるのに、★「明帝を含む魏の朝廷を表す重要な文字を蛮夷の国名に使うか?」という疑問は全く解消されないのである。古田氏のような「至高の文字」なんていう大げさなもの言いには取り合わないけれども。例文では、当時の玄宗の諱をさけるため高堂隆を高堂崇に変えている。

 魏志には邪馬壹国に加えて壹與が三回、計四文字の壹があって、「臺に詣る」と臺が書き分けられている。壹のすべてを書き間違えとすることができるのか? すべて元は臺だとしたら、他の文字はみんな見えているのに、飛び飛びにあるこの四文字の臺だけが都合よく見えにくくなって間違える確率はどれくらい?

 帯方郡使、張政の帰国を送った壹與の遣使は魏の滅亡二年前、陳留王奐の景元四年(263)と考えられる。(「魏志倭人伝から見える日本3-h、壱与の即位と張政の帰国」参照) 陳留王は十七歳、帝としては機能していなかった。壹與の使者が「臺に詣った」ということは、陳留王を含むかどうかはわからないが、朝廷に至って面会していわけである。臺という文字を軽く見ることはできないだろう。

 古田武彦氏やそれを支持した私の「魏臺は明帝」だという主張は否定されたのだが、★印を付けた根本的な部分で何も変わらない。「明帝」が「明帝を含む朝廷に変わった」だけである。


この文もコピーして「邪馬壹国の訛」の項の最後に貼り付けておいた。

サイトの関連文の書き直しが面倒だな~ 

2020年10月5日月曜日

邪馬壱国説に関して

  魏志「邪馬壱国説」に関して、塚田敬章氏批判なんて書いている人がいたので、その批判の薄ペッタさを示すために、何度かこのブログに書いていたが、わかりやすくするために一つに統合しておいた。批判と言うにはこういう内容が必要だよということも示して。

 古田武彦氏は評価していないが、正しいことを言っているなら認めるさ。自分の思い込みだけの文章は書かない。私のほうが公平なんだ。

 古田氏の魏臺訪議に関する主張を覆せない限り、自動的に邪馬壱国説が成立してしまうのだが、そのことを認識していないのか? 都合が悪くて逃げているのか? 数十年経つのに未だに反論らしきものを見たことがない。