2024年2月8日木曜日

帯方郡太守、張撫夷に関する記述を一部修正

 「魏志倭人伝3」末尾に書いた張撫夷のことを一部修正。晋から張撫夷と名乗れと与えられたのではないかと書いたが、諡号として与えられたと考えた方が自然だと思って修正。張政は諱だと思えるが、張何とかと名乗ってきた功績のある人間に対して、改名しろとは言わないだろう。死後、その功績を記念して張撫夷という名を贈ったのだと思える。

魚陽張撫夷の魚陽も住んでいるというわけではなく、本籍地のようなものだとわかって記述を修正。魚陽の張氏の系統なのである。

正しい歴史を掴むために、知識はいくらでも必要だ。

2024年2月5日月曜日

魏志倭人伝4、卑弥呼の鏡に東大寺山古墳出土の鉄刀の史料を追加

 出雲に国を作っていた越人は、大和へ移動して邪馬壱国を建て、その同盟国と女王、卑弥呼を共立して、公孫氏の帯方郡に保護を求めたのです。卑弥呼と公孫氏の関係は事実と考えて差し支えありません。漢は卑弥呼一族の敵で、それと対立した公孫氏と結ぶのは必然と言って良い。奈良県天理市櫟本町にある和爾氏系(=物部系)と思われる東大寺山古墳から、「中平(184~188))」という年号の記された鉄刀が出土しており、公孫氏との交流を示唆しています。霊帝の184年(中平元年)、黄巾の乱が起こり、これ以降、漢は大混乱に陥って滅亡へと向かいます。漢、中央政府との交流は考え難いのです。