上記は「倭人伝への旅」というブログで見つけたhyena_no_papaという人の投稿文である。塚田説では「今名」が何なのか不明ですと言われても、邪馬臺(ヤマタイ)国に入っている注なのだから邪馬臺国に決まっているじゃないか。注はそれ自体独立して存在する文ではない。書いてあるものを補足するために付加されているのだ。
范曄が後漢書で邪馬壹を邪馬臺に修正した(これは晋書安帝紀にある倭王の遣使データから得たのだろう)。その後、遣隋使、遣唐使の渡来によりヤマトが都であることは広く知れ渡り、音の近い後漢書が正しいと考えてヤマタイを受け入れているのである。唐代の注だから今名は邪馬臺である。べつに邪摩堆(ヤマタイ、これは日本に渡来した裴世清の報告にあった文字ではないか)でもかまわない。それが常識になっているから、唐代に書かれた隋書は倭国の過去を記述するにあたって、魏志を信用せず、記述内容の少し異なる後漢書を引用している。
そういうことを全部書いているのに、凝り固まった人は受け付けないのだな~。「魏志倭人伝から見える日本」を読んでいないのかな?
【そもそも、「邪馬壹」なる表記は、現存南宋刊本に至るまでの間、中国の文献に一切登場しません。『魏志』を引用・参照したと思しき諸典籍はいずれも「臺」です。このことは、「壹」が宋代になってから出現したと考えることの妥当性を明白に示していると言えるでしょう。】
書物はすべて伝世して書き継がれたものだし、研究者は研究の成果を発揮して平気で文字を書き換えるので、そんなことは当てにならないのである。隋、唐以降の編纂者、著述者には倭国の都はヤマト(邪馬臺)だという知識がある。おおまけにまけて隋、唐以前の引用で邪馬臺と書く文献があるなら受け入れることを視野に入れる。
単純に書き写されてきた魏志倭人伝本文に邪馬壹(ヤマイ)と書いてあるから問題になる。そこには引用者の意思は入らない。そして、後漢書の邪馬臺に唐代の李賢が邪摩惟(ヤマイ)音の訛りだと注を入れている。
魏志が邪馬臺(ヤマタイ)あるいは邪摩堆(ヤマタイ)と書いているなら注を入れる必要がない。邪摩堆も文字は異なるが音は同じである。
邪摩惟(ヤマイ)という音をどこから引っ張り出せるのだろうか。
邪摩惟を邪摩堆の誤写とするなら、邪摩堆が同音の邪馬臺の「音の訛り」だという注は成り立つのか?
「訛」は言葉(音)が間違って変化したことを表す文字で、文字の間違いを言うものではない。その主張が整合するには臺と堆が異音であることを証明する必要がある。
同時代の漢詩の韻を調べて違いを発見することだね。こちらは李白の詩の韻を調べて同音だと言っている。「開、廻、灰、臺、堆、哀」である。都合よく臺と堆が並んでいる。
「ai」という韻母でなければ韻を踏めない。
以上のようなことから、唐代の魏志には邪馬壹と書いてあったという結論を出した。魏志の邪馬壹を邪馬臺に修正して考える必要があるのか、卑弥呼から倭の五王に至るまでの間に、王朝交代により邪馬壹から邪馬臺に国名が変更された可能性がある。魏志の邪馬壹をそのまま使用すべきだというのが私の主張である。
つまり、弥生時代から古墳時代前期に至るまで、ヤマトという国名ではなかったと言っているのだ。ヤマトに上書きされ消されているから、日本の史料からの証明は不可能だけれど。
しかし、卑弥呼の後の女王が壹與(イヨ)であることに関してはデータがある。唐代に記された梁書にある臺與(トヨ)ではない。ホームページ、補助資料集の「村屋神社」に関するレポートを読まれたし。
魏志にある壹與から、臺與への書き換えは、魏志にある壹は臺の誤りだと考えられ、修正された証左とできる。
崇神紀にある、三輪山の大物主神の妻となり、不思議な死に方をした箸墓の主、ヤマトトトビモモソ姫が卑弥呼であろうとは多くの人が指摘しているし、私もそう考える。
もう一人、大物主神の妻となった人物(神)がいて、三穂津姫という。こちらは紀の神代に記されている。要するに三穂津姫はヤマトトトビモモソ姫と同格、大物主神の妻なのである。ヤマトトトビモモソ姫が卑弥呼なら、三穂津姫に卑弥呼の後継者、壹與が投影されていることは容易に想像できるであろう。
その三穂津姫を祀る神社が奈良県の田原本町にある村屋坐弥冨都比売神社で、集落名はイヨドという。
単に土地の名前がイヨに一致すると言っているのではない。イヨやトヨなどと付く地名はいくらでもある。三穂津姫を祭っているかどうか。壹與と目される卑弥呼と同格の神、三穂津姫がイヨドという土地に祭られていることが重要なのである。三穂津姫がイヨと結びつく。卑弥呼の後継者は壹與(イヨ)であり、梁書の記す臺與(トヨ)ではないという結論が出せる。
★伊予国の別名が愛媛(可愛い姫)であることも難なく説明できる。おそらく壹與という名は地名から採られたものだろう。
伊予と大和の強い結びつきを示す伝承もある。
★伊予国風土記逸文
「伊予の郡、郡のみやけより東北のかたに天山あり。天山と名づくるゆえは、倭(やまと)に天加具山あり。天より天降りし時、二つに分かれて、片端は倭の国に天降り、片端は此の土(くに)に天降りき。因りて天山と謂う、ことのもとなり。(其の御影を敬禮ひて、久米寺に奉れり。)」
臺與(トヨ)説をとれば、こういうこと★は「訳がわかりません」というしかないであろう。間違った方向へ足を踏み出せば、矛盾が吹き出して、後が支離滅裂になる。歴史を語れない。見ないふりをしてごまかしても、世間はデータを知っている。自らの価値を落とすだけなのである。ネット公開して誰でも読めるわけだから、世間が評価を下してくれるだろう。
おそらく義煕九年(413)の倭王の遣使の史料が残っていたのであろう。後漢書は魏志の邪馬壹国を邪馬臺国に修正した。裴世清の倭国への派遣や、遣隋使の到来により、都は邪摩堆であることが確認され、魏志にある「壹」は間違いで、後漢書の「臺」が正しいと結論された。したがって、唐代以降の書物の引用にはほとんど邪馬臺(邪摩堆)国と記されることになる。
唐代に編纂された隋書は魏志を信用せず、後漢書を引用しているし、同じく、唐代に編纂された梁書は壹與まで臺與に修正してしまったのである。
魏臺訪議の魏臺は明帝である
隋書経籍志二(巻三十三)に、高堂隆撰、魏臺雑訪議三巻が見られる。
魏志には高堂隆伝がある。高堂隆(?~237)は明帝の傅(守り役)となり、光禄勲で生涯を終えた。厳しい儒者だったようで、明帝の身近にいる人だった。上表して諫言したことや、明帝の下問に応答したことなどが記されている。
魏臺訪議の内容はということになるが、断片しか残っていない。訪議は「質問して相談すること」。魏臺訪議は残された断片を読む限り、明帝と高堂隆の問答集と思われる。雑(いろいろな物が入り交じった)を加えて、魏臺雑訪議という書名になったようである。高堂隆伝にある明帝の下問とそれに対する返答は、魏臺訪議からの引用かもしれない。
蜀書、劉二牧伝第一の「物故」という言葉に裴松之(南朝宋代)が注を入れている。
「魏臺訪物故之義高堂隆答曰聞之先師物無也故事也言無復所能於事也(魏臺、物故の義を訪う。高堂隆、答えて曰く…)」
「魏臺が死のことを物故というのは何故だと尋ねた。高堂隆が、私の先生に聞いたことですが、物は無で、故は事です。事に於いてまた能くする所の無い(何も出来なくなる)ことを言いますと答えた。」という意味らしい。
史記匈奴列伝の「物故」にも、索隠注(唐代)が「魏臺、議を訪う、高堂崇、対えて曰く…(魏臺訪議高堂崇対曰聞之先師…)」と、名前を間違っているが、同じ文を引用している。
後漢書儒林列伝(上)の「物故」の注(唐代)にもある。「在路死也。案魏臺訪問物故之義高堂隆合曰聞之先師…(在路死なり。案ずるに、魏臺、物故の義を訪問す。高堂隆、合いて曰く、これを先師に聞く…)」
「路上死である。案ずるに、魏臺が物故の意味を訪ねまわった。高堂隆が会って言った。これを先師に聞いたのですが…」という意味になる。
太平御覧(宋代)巻三十三、時序部十八では、明帝の祭祀に関する問いに高堂隆が答えている。
★「高堂隆魏臺訪議曰詔問何以用未祖丑臘、臣隆対曰按月令孟冬十月臘先祖五祀謂薦田臘所得禽獣謂之臘」
(高堂隆の魏臺訪議曰く、詔して問う、なんぞ以って未祖丑臘を用いる。臣隆こたえて曰く、案ずるに月令、孟冬十月、先祖五祀に臘す。田猟して得るところの禽獣を薦めるを謂う。これを臘と謂う。)
芸文類聚(唐代)巻五では次のようになっている。
★「魏臺訪議曰帝問何用未社丑臘王肅對曰魏土也土畏木丑之明日便寅寅木也故以丑臘土成于未故于歳始未社也…
(魏臺訪議曰く、帝問う、何ぞ未社、丑臘を用いる。王肅、対えて曰く、魏は土なり。土は木を畏れる。丑の明日はすなわち寅にして、寅は木なり。…)」と記されている。
太平御覧の質問と同じだが、王粛(195~265)という人物が答えている。魏、王粛撰の「魏臺訪議」という書もあり、その中の一節のようである。しかし、王粛著の「孔子家語」は偽作というのが定説で、王粛は少々いかがわしい人物であったらしい。元々存在した孔子家語を自説に都合の良いように改変して世に出したという。魏志王郎伝に王郎の息子として付け加えられている大物で、晋を建国した司馬炎の母方の祖父にあたるが、盗用の常習犯かもしれない。魏臺訪議も、高堂隆のものと回答が全く異なっており、自説に書きかえて、自らの著作のように装ったとみえる。
そして、高堂隆の魏臺訪議が魏臺と表す質問者を、同じ魏の王粛は帝と表記しているわけである。
魏臺が明帝あるいは明帝その人ではなくても、明帝を含む朝廷に使う文字であるなら、魏の文献は、蛮夷の国を表すのに臺という文字を使えないだろう。魏志の邪馬臺国はありえない。文字の転写間違いではなく、邪馬壹国が正しい。ここは、古田武彦氏の判断を承認せざるを得ないわけである。
タイという音の文字はいくらでもある。対とか帯、体、太など。hyena_no_papa氏は、百衲本の史記には「魏壹」と書いてあり、臺は壹へ移りやすい文字だと主張している。それなら「魏臺」が元の形で正しいのだろう。魏臺を認定していることになるのだが?
臺は高台を意味する文字である。魏志倭人伝には、壹與は使者を派遣し張政等の帰国を送り、臺に行って貢物を献上したことが記されている。中央政府のことを臺と表現している。後には臺城が皇居を表すようになった。明帝を魏臺と表す可能性は大いにあるわけである。「魏壹」にどういう意味があるのだろうか。
古田武彦氏は魏志の文字をすべて調べ、臺と壹が間違われている例はないと書いていた。確認する気はないので、本当かどうかはわからない。大量の文献中の、文字の異同を調べ上げるのは根気のいる作業である。hyena_no_papa氏も根気強い人なのであろう。しかし、臺は壹に間違えられやすいという程度では反論のレベルに達していない。
私はそういう表面的なことにあまり興味がない。原典の文字がわからない。何種類の異本があったかもわからない。現在伝わっている本がどの異本を踏襲しているのかがわからない。現在の魏志には邪馬壹国と書かれている。それが一番古い一冊しかなかった書を写しているかもしれないのだ。現れた時代が一番古くても、新しい写本が元になっているかもしれない。何も決定できないのだから、今ある形を使えば良いと考える。
私に対する批判というなら簡単である。
史料を揃えて、魏臺が明帝ではないことを証明すれば良いだけだ。あるいは、明帝を表す文字を蛮夷の国に使用しても儒教的に問題がないことを示すか。
卑弥呼(ヤマトトトビモモソ姫)と同格の三穂津姫が卑弥呼の後継者の分身ではないことを論理を以って説明すれば良いだけだ。三穂津姫はイヨという音に結びつく。
范曄の魏志倭人伝修正(邪馬壹→邪馬臺)、神功皇后による地名変更に反証すれば良いだけだ。
魏臺訪議に関して、有効な反論ができないなら、自動的に邪馬壱国説が成立してしまうのだが、わかっているのかな? 都合の悪いことは見えないことになるのかな?
10月7日
hyena-no-papa氏のブログで次の文を見つけた
尚書曹訪云:「官僚終卒、依礼各有制。至於其間、令長以下、通言物故、不知物故之名本所依出。」高堂崇曰:「聞之先師、物、無也。故、事也。言無復能於事者也。」(注:避諱で崇←隆)
質問したのは尚書曹であって皇帝ではない。
「魏臺訪議」という書物には、高堂隆の受けた質疑が収録されているが、皇帝の下問もあれば小役人から聞かれて答えたことも書いてある。
史記集解では「高堂隆答魏朝訪曰」となっており、魏臺=魏朝。
つまり「魏臺」は魏の公務全般を包含するのです。
確かに「通典 巻八十三 禮四十三」に書いてある。尚書曹の役人が「官僚が死んだときは卒で、礼によって決まっている。令長以下はみな物故というがその言葉の出所がわからない。」と訪ねている。
この主張は正しい。こちらは関連文書を修正せざるを得ない。よほど漢文データに詳しい人なんだろう。ちょっとマークしてみるか。
しかし、魏臺訪議とはっきり書いていて、魏の時代には「魏臺」という表現があったわけである。タイ音の文字は他にいくらでもあるのに、★「明帝を含む魏の朝廷を表す重要な文字を蛮夷の国名に使うか?」という疑問は全く解消されないのである。古田氏のような「至高の文字」なんていう大げさなもの言いには取り合わないけれども。例文では、当時の玄宗の諱をさけるため高堂隆を高堂崇に変えている。
魏志には邪馬壹国に加えて壹與が三回、計四文字の壹があって、「臺に詣る」と臺が書き分けられている。壹のすべてを書き間違えとすることができるのか? すべて元は臺だとしたら、他の文字はみんな見えているのに、飛び飛びにあるこの四文字の臺だけが都合よく見えにくくなって間違える確率はどれくらい?
帯方郡使、張政の帰国を送った壹與の遣使は魏の滅亡二年前、陳留王奐の景元四年(263)と考えられる。(「魏志倭人伝から見える日本3-h、壱与の即位と張政の帰国」参照)
陳留王は十七歳、帝としては機能していなかった。壹與の使者が「臺に詣った」ということは、陳留王を含むかどうかはわからないが、朝廷に至って面会していわけである。臺という文字を軽く見ることはできないだろう。
古田武彦氏やそれを支持した私の「魏臺は明帝」だという主張は否定されたのだが、★印を付けた根本的な部分で何も変わらない。「明帝」が「明帝を含む朝廷に変わった」だけである。
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