2020年9月17日木曜日

神功皇后の実在を支持する史料

         「魏志倭人伝から見える日本、1,邪馬台国や邪馬壹国か」より

【晋書安帝紀…「この歳(義煕九年、413)、高句麗、倭国及び西南夷銅頭大師、並びて方物を献ず。」《方物=地方の産物》

 以下の注が入れられています。

 「御覧九八一、義煕起居注曰く。倭国は貂皮、人参等を献ず。詔して細笙、麝香を賜う。」 

 この記述自体は太平御覧(983)、巻981の「麝」の項に見られるものです。起居注とは天子の日常の出来事を記録した文書をいいます。

 倭国が方物として、貂皮や人参等の朝鮮半島の産物を献上しました。そして、高句麗、広開土王碑には、「辛卯の年(391)、倭が海を渡り来て、百済、■■、新羅を破り、以って臣民となした」という記述がみられます。神功皇后が新羅、百済を属国にしたという記、紀の記述にぴったり結びつき、全てが真実であることを示しています。日、中、韓、三つの国の無関係な史料が同じ方向を指しているのです。東晋へ遣使した413年の少し以前に畿内へ進出し、神功皇后の政権が安定したと思われます。】


 貂皮、人参という韓半島の産物を自国から出たものだと中国に届けている。百済、新羅を領有するに至ったというアピールであろう。

 宋書倭国伝の倭王讃より十数年先立つ遣使である。倭王讃は上表しているから自身の名を書いただろう。讃の意味はほめる(古語は「ほむ」)であるから、ホムダワケという応神天皇の名に一致している。自らの名を表すのにふさわしい好字を選んだと考えられるのである。それに先立つ遣使なら、応神天皇の母、神功皇后の遣使と解するのが妥当ということになる。

 こういうデータ間の整合性があって主張しているのに、読まない人間が多いようだ。理解を拒否しているのか?

 翰苑の神功皇后に関する記述にも貼り付けておいた。

 日本の古代史を研究しているのだから、解明のためにあらゆるデータを使う。「記、紀」を照らし合わせることで真実が見えてくる。中国史書のみで日本史の解明は不可能である。「記、紀」を捨てたら身動きできなくなるよ。古田武彦氏のように。

 聖徳太子に関するもの以外、サイトに出しているレポートはすべて「弥生の興亡」を支える資料で、主張の根拠を明らかにしている。全部書き込むと読みづらくなってしまうのでね。

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