2020年10月7日水曜日

魏臺訪議に決着。すっきりできた。

hyena-no-papa氏のブログで次の文を見つけた


尚書曹訪云:「官僚終卒、依礼各有制。至於其間、令長以下、通言物故、不知物故之名本所依出。」高堂崇曰:「聞之先師、物、無也。故、事也。言無復能於事者也。」(注:避諱で崇←隆)

質問したのは尚書曹であって皇帝ではない。

「魏臺訪議」という書物には、高堂隆の受けた質疑が収録されているが、皇帝の下問もあれば小役人から聞かれて答えたことも書いてある。

史記集解では「高堂隆答魏朝訪曰」となっており、魏臺=魏朝。

つまり「魏臺」は魏の公務全般を包含するのです。


 確かに「通典 巻八十三 禮四十三」に書いてある。尚書曹の役人が「官僚が死んだときは卒で、礼によって決まっている。令長以下はみな物故というがその言葉の出所がわからない。」と訪ねている。

 この主張は正しい。こちらは関連文書を修正せざるを得ない。よほど漢文データに詳しい人なんだろう。ちょっとマークしてみるか。

 しかし、魏臺訪議とはっきり書いていて、魏の時代には「魏臺」という表現があったわけである。タイ音の文字は他にいくらでもあるのに、★「明帝を含む魏の朝廷を表す重要な文字を蛮夷の国名に使うか?」という疑問は全く解消されないのである。古田氏のような「至高の文字」なんていう大げさなもの言いには取り合わないけれども。例文では、当時の玄宗の諱をさけるため高堂隆を高堂崇に変えている。

 魏志には邪馬壹国に加えて壹與が三回、計四文字の壹があって、「臺に詣る」と臺が書き分けられている。壹のすべてを書き間違えとすることができるのか? すべて元は臺だとしたら、他の文字はみんな見えているのに、飛び飛びにあるこの四文字の臺だけが都合よく見えにくくなって間違える確率はどれくらい?

 帯方郡使、張政の帰国を送った壹與の遣使は魏の滅亡二年前、陳留王奐の景元四年(263)と考えられる。(「魏志倭人伝から見える日本3-h、壱与の即位と張政の帰国」参照) 陳留王は十七歳、帝としては機能していなかった。壹與の使者が「臺に詣った」ということは、陳留王を含むかどうかはわからないが、朝廷に至って面会していわけである。臺という文字を軽く見ることはできないだろう。

 古田武彦氏やそれを支持した私の「魏臺は明帝」だという主張は否定されたのだが、★印を付けた根本的な部分で何も変わらない。「明帝」が「明帝を含む朝廷に変わった」だけである。


この文もコピーして「邪馬壹国の訛」の項の最後に貼り付けておいた。

サイトの関連文の書き直しが面倒だな~ 

3 件のコメント:

  1. 拙ブログ等ご覧いただきありがとうございます。古田氏が神聖至高文字論で用いている『魏臺訪議』という書物ですが、その「臺」が皮肉なことに「壹」と誤られているケースがあります。拙ブログにその画像もUpしましたのでご覧いただければと思います。
    https://hyenanopapa.blog.fc2.com/blog-entry-1732.html

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  2. 魏壹訪議を正しい書名と考えるのかどうかという問題。そう思うのは自由なので止めはしませんが。

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  3. 「魏臺訪議」には「魏の臺(朝廷)での議論」という意味がありますが、「魏壹訪議」とはどういう意味でしょうか。
    高堂隆のほかに王粛の「魏臺訪議」もありますよ。それでも「魏壹」が正しいとされる根拠は?

    国名に邪(よこしま)+馬(動物)という文字を選択した同一人物が、タイ音の文字はいくらでもあるのに、魏の朝廷を表す臺という文字を続けるとは思えないのですが。女王も卑(いやしい)弥呼ですから。
     後漢書の范曄、あるいはその根拠となった資料の著者はそれを気にしていないことになりますが。

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