2016年12月4日日曜日

国内最古の石の分銅

 2013年に、国内最古の石の分銅が見つかった。弥生時代前期末(2400年前)のもので、30年前に大阪の亀井遺跡から出土していたが、何かを粉にするすり石と考えられていたという。一番小さなものは、長さ3cm、直径1cmくらいらしい。大きなものは、長さ8cm、直径4.5cmになるようだ。こんな時代から重さを精密に量る需要があり、それに応える技術があったわけである。弥生時代の文化レベルは、これまで想定されていたよりもずっと高いということになる。
 分銅があるということは、天秤もあるわけで、8cmもある分銅を乗せる皿はそれより大きかったのだろう。人間が紐でぶら下げる形の天秤なのか、支柱を立てて支点で回転させる形の天秤なのか。後者ならもっと面白くなる。

 森岡秀人日本考古学協会理事(考古学)の話(日経新聞)
「計量技術が弥生時代前期までさかのぼるのは驚きだ。思想は中国から伝わったのだろう。」

 倭人は「自ら太伯の後」、つまり中国から移住したと言っているではないか。思想だけが歩いてきたわけではない。そういう部分を認めるのにずいぶん臆病である。

2016年12月3日土曜日

ネット評価の危うさ

 先日、メガネを買った。商店街のメガネ屋が廃業してしまったので、新しくできた「眼鏡市場」へ行った。店員が普通に応対して、普通に検眼して、今までの店と何も変わらない。最後に値段を聞いてびっくりした。21600円だという。以前の半分以下である。これほど値段の差があれば、個人商店のメガネ屋がどんどん減っていくのも無理はない。六,、七年、メガネ屋から離れているうちに、こんな価格破壊が起こっていたとは。
 ネットで「眼鏡市場」の評価を見たら、最悪である。店員の応対が悪い、できあがったメガネが合わない等々。事前にこれを読んでいたら、たぶん、行っていない。しかし、今までのメガネ屋と何ら変わりがないのは、すでに経験済みである。これは対抗メガネ店のネガティブキャンペーンかもしれない。ネット評価を鵜呑みにするのは危ないと感じた。実際に消費者が書いているという保証は何もないのである。
 できあがったメガネがひどいという評価を読んでしまったので、一抹の不安を感じながら、一週間後にメガネを受け取りに行った。別になんの問題もなく使えている。あとはレンズのコーティングが剥げたりしないかという長期使用に関する問題だけだ。五年は保ってほしい。先々代のメガネはビジョンメガネで作ったのだが、半年もしないうちにコーティングが剥げて真っ白になった。倒産したと聞いて、さもあろうと思ってものだ。ドイツ製のレンズだと言い、鉄球を落としても割れないことを見せてくれたのだが、使ってはいけないような弱点があった。別に、文句を言いにいったりしないが、見捨てる。私のような客が大半なのだろう。顧客の支持を受けないメガネ屋が店舗を増やせるはずはないのだ。

2016年11月29日火曜日

古田武彦氏の二倍年略など

古田武彦氏の二倍年略
 古代は自然依存度が高かったから、季節の順調な推移を願うこと現在の比ではない。干害をおそれ、冷夏をおそれ、すべて神頼みだった。
 その季節の変動は太陽の運航がもたらす自然現象である。地球が太陽を一周する時間が太陽暦の一年となり、それが十二ヶ月にわけられている。月の満ち欠けを基準にする太陰暦は、長期になると季節が狂うが、うるう月を入れて十三ヶ月にすることで補正した(太陰太陽暦)。中国の太陰暦では太陽暦と同じ天体時間が意識されているのである。日本もそれを受け入れた。これは四季のある土地での農耕という社会生活に根ざしているのだろう。イスラム社会では純太陰暦だというが、熱帯の砂漠地帯だから、四季の変化に乏しく、季節の狂いがあまり意識されないように思われる。
 魏志倭人伝の裴松之注に、「魏略曰く」として「その風俗では、正月や四季の区別を知らず、ただ春に耕し、秋に収穫することを数えて年期としている。」という記述がある。暦がなく農耕の一巡で年を数えているというのである。古田武彦氏はこの記述をとらえて、耕して一年、収穫して二年というふうに、現在の一年を二年に数える二倍年暦という不思議なものを案出している。二年が現在の一年と考えれば、倭人伝の記述の百や八、九十の長寿者が多いという記述が四、五十代のことになり、現実的だというのである。
 しかし、それでは長寿とは言えない。農耕にしても、耕したあと何もせずに過ごすわけではない。草取りなど日常的な管理が続けられ、収穫でやっと区切りがつけられる。耕地から収穫までの作物の成長過程が一連のブロックとして意識されるだろう。一農業年が一年と考えるのが普通である。山の雪の形やカッコウなど鳥の鳴き声で農耕の始め時を知るという習俗も太陽と地球の位置関係から派生する。つまり一太陽年に基づく習俗なのである。それが一つのブロック、つまり年期として意識されるのが当然である。「春秋いくつ」という年の数え方が昔からある。周の穆王は即位時に「春秋すでに五十」と記されている。周初期の年齢の数え方が同じだったのだ。穆王は断じて25歳ではない。孔子の編んだ歴史書が「春秋」である等、古田氏に対する反証はいくつもあげられる。ほとんど相手にされていない説だから、むきになって否定するほどでもないのだが。


古田武彦氏の長里、短里
長さを表す「尺」という文字は、指を広げて測っている象形だという。「歩」は一歩の距離を表す。魏代は1.447メートルで、ちょっと大きすぎる。足を思いきり開いた長さなのかと疑問だった。調べたら、一歩といっても左右の一歩ずつで、現代日本の感覚なら二歩である。それなら納得できる。元の形に戻るから、そこから次の一歩が始るという発想のようである。ちなみに私の一歩は1.28メートルであった。
 これらは、元々は別個に存在した単位なのだろう。秦の始皇帝が中国を統一し、度量衡を統一した。度が長さ、量が体積、衡が重さを表す。この時、6尺が1歩と定められた。戦国時代は各国でバラバラだったということにもなる。尺が基準単位である。6尺が1歩、300歩が1里だから、1里は1800尺になる。こういうふうに、長さを測る単位は一つの体系のなかに位置づけられる。
 古田武彦氏は短里というものがあったと主張するが、この単位体系を外した形で考えなければならない。ある山の高さが短里で考えれば一致するというようなことを書いてあったが、山の高さは測る位置によって異なる。海抜3776mの富士山も、富士吉田市から測れば3000メートル程度である。その山の高さをどこから測ったか解っているのだろうか。現在の標高なら、海水面をゼロとするはずである。現在の標高と古代の里であらわされた高さが一致するというなら、古代に海抜という現在の地理学的発想があったことを証明しなくてはならない。すべて、何の検証もなしに都合の良い数字だけをピックアップしているのである。
 魏志倭人伝に書かれた距離の数字が絶対的に正しいと扱う根拠はいったい何だろうか。朝鮮半島から三つの海峡を渡って九州に渡来するわけだが、すべて千里と表わされている。実際には最後の壱岐と唐津の間はかなり短い。普通、だいたいこんなものと適当に選んだ距離と考える。距離が正確という前提そのものが間違っているわけである。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/1/wajinden_2.htm(魏志倭人伝から見える日本2)


古田武彦氏の姿勢
 古田武彦氏がなぜ二倍年暦や長里、短里というような理不尽を案出したかというと、魏志倭人伝に書かれた文字はすべて正しいという立場に立つからである。読んでいる人間が同じ書物の中で、単に「~里」と書いてある部分を、ここは長里、ここは短里と区別できるかとか、帯方郡使に距離を正確に計る能力があったかとか、一年を二倍に数えた裏付けはあるのかとか、人間の現実的方向からの思考、チェックというものはいっさい放棄されており、書物からの想像だけですべてを動かしている。しかし、歴史は人間の過去の現実である。常識的な判断力を持つ人間からみれば氏の主張は妄想でしかない。
 文献が真実かどうか、他の文献や考古学資料、伝承などと比較して過去の真実を探る。それが歴史学である。したがって、文献を鵜呑みにして、つじつまのあう説明を見つけようとする古田氏のアプローチは、歴史ではなく文学に類するものだ。ホラ話として読んでおけばいい。
 中国の文献を絶対視して鵜呑みにするという方法は中国文献崇拝史観とでも言うべきか。氏が批判する、記、紀を鵜呑みにした戦前の皇国史観と、方向は違えど同じ立ち位置にある。それに気づいていないようだ。色眼鏡をかけて見ているから、当然、本当の色は見えない。


古田武彦氏の死去に思う
 この人が邪馬壱国説を出し、朝日新聞社が後押ししなかったら、古代史は学者間で細々と語られているだけだったんじゃないか。学者なんて当てにならないぞ、自分で研究しても良いんだぞと一般人に気付かせた。そう考えれば功績はムチャクチャ大きい。理科系と違って、高度な数学や高価な機械は必要ない。漢文さえ読めれば良いのである。あとは自分の発想力の問題だ。専門知識を一般化されてしまった学者達はさぞ迷惑だったろう。考古学的な発見はあっても、今さら新しい文献は出てこない。古代の文献史学は、学者と同じ土俵で競えるのである。私も古田さんの影響を受けているわけだ。
 邪馬壱国なのか、邪馬台国なのか。中国史書間に不整合があって、様々な文献を照合した結果、古田さんの魏志倭人伝、邪馬壱国説が正しいと結論を出した。後漢書の時代までに、王朝交代に伴う地名変更があったと考えればすべてが整合するのである。調べているうちに、王朝交代というより、数代後の神功皇后があちこちの地名を変更しまくったらしいとおぼろげに見えてきた。奴(ど)から灘(な)へ。投馬(とうま)から鞆(とも)へ。津(つ)から難波(なには)へ。狗奴(こうど)から名草(なくさ)へ。邪馬壹(やまうぃ)から邪馬臺(やまと)へ。すべて神功皇后にゆかりの深い土地である。水を意味する「な」という言葉がお気に入りだったらしいとも思える。
 古田さんに賛同できるのは邪馬壱国説のみ。しかし、それすら最初はアホくさいと思っていたのである。疑問を感じれば自分で調べれば良いのだときっかけを与えてくれた。古田さんの主張のほとんどすべてに否定的だったため、いままで考えもしなかったが、歴史に関しては、一番影響を受けている。感謝とともに、ご冥福を祈りたい。

2016年11月27日日曜日

ズボンの語源

 ズボンが足りなくなったので買いに行った。今はパンツか?そういえばジーパンは以前から普通につかっていて、パンはパンツの略なんだろう。気にも留めていなかった。英語はトロウサーズのはず。じゃあ、ズボンは何語からきたんだと気になり、帰ってからググってみた。整理すれば、「ズボンはフランス語でペチコートの意味のjuponから来ているといわれる。juponは男性が身にまとうゆったりとした衣服をいうアラビア語djubbaに由来する。足がずぼんと入るからという説もある。」とのこと。どちらも納得がいかないんだけど。女性の下着が男性の外衣の名称に転用されたりするのか。
 アラビア服は白くてスカートみたいに広がっているから、djubbaが形状のよく似たスカートの下はく下着に転用されてjuponになるのは理解できる。ズボンは足が別れていて、まったく異なるではないか。
 juponは女性用下着の襦袢(じゅばん)の語源ではないかと調べたら、「アラビア語のジュッパがポルトガル語化したジバゥンを音写した文字で、漢字は当て字である。」やっぱりつながっていた。襦袢とズボンが同じ?ズボンのjupon語源説はなんだか怪しいな~。
 「ずぼっ」とか「ずぶっ」とかは、何かにはまり込む状態に使う擬態語だし、「すぽん」は、逆に抜けるときに使う。衣服を貫いて足を出し入れするのだから、ズボンという言葉は似合っている。個人的には「ずぼん」と足を入れるから「ズボン」になったという説に軍配をあげたい。
 古墳時代の武人埴輪は、乗馬用なのか、ズボンをはいている。あれは「はかま」の起源なのだろう。

2016年11月25日金曜日

ブログアクセスの不思議

 このブログはホームページを訪れた人が、ついでに覗いていくことを想定している。たいして面白いことを書いているわけではないから、元々、アクセスは少ない。しかし、旧ブログからBloggerに引っ越してからは、以前と比べれば、急増といって良い増え方である。しかも、アメリカからのアクセスがほとんどということになると、わけが解らない。アメリカにも、日本人や日本語の読める人は沢山いるだろうけれど、ホームページへのアメリカからのアクセスは数えるほどである。検索エンジンにも引っかかっていない。どうやって,このブログの存在を知ったのだろう。アメリカには日本にないシステムがあるのか。何か腑に落ちない展開になっている。

2016年11月24日木曜日

ミッキー、ビッキー

 「他民族の言葉を聞き取ったとき、その民族にはない発音もありますから、表記しようとすれば微妙な誤差があらわれます。明治時代の人はアメリカンをメリケンと聞いた。だから小麦粉のことをメリケン粉といい、アメリカを米国と書くわけです。イギリスはエゲレス、英国ですが、これはイングリッシュを聞き取ったものでしょう。日本人のニッポンという発音は英国人にはジャパンと聞き取られた。これは「日」の呉音が「ニチ」、漢音が「ジツ」であることを考えれば簡単に理解できます。ニッポン→ジッポン→ジャパンというわけです。英国人の耳は、日本人より中国北方人に近いようです。ポルトガル人がヤポンと聞き取ったのも、邪(ジャ)が「ヤ」という音を併せ持つことから類推できます。ニッポン→ジッポン→ジャポン→ヤポンというわけです。ポンの方にアクセントがあり聞きやすかったようです。魏志倭人伝の地名や人名も、中国北方人が当時の日本人の言葉を聞き取って漢字表記したものですから、誤差を考慮に入れて読む必要があります。」

 こういう文をホームページのトップに出していたことがある。ところが、ずっと古く、マルコ・ポーロのジパングがあるぞ。中国人の発音を表記したそれが語源だろうというメールが来た。チェック時にまったく考慮していなかったので、あわててこの文を引っ込めた。

 しかし、最近、十六世紀には日本人が東南アジアへ進出していたし、遣欧使節まで派遣されたことに気付く。ヨーロッパ人が直接日本人と話す機会があったわけで、英国人の日本語聞き取りはともかく、ポルトガル、スペインなどに、この頃あらたにジャパンが生まれたのではないかと疑問を感じだしたのである。マルコポーロのジパングがどういう広がりをもって受け入れられていたか、ヨーロッパ各国の文献に日本が現れるのはいつからか、ポルトガル、スペイン等の船員なり宣教師なりの日本に関する報告にどう書き表されているかなどの調査が必要だが、残念ながらその力はない。

 結局、何が言いたかったかというと、発音の聞き取り表記には誤差がつきもので、それを頭の片隅に入れておかねばならないということである。倭語の漢字表記もその一例で、あんまり文字の発音に忠実に考えると、かえって真実を失いかねない。「まあ、こんなものだろう。」といういい加減さもまた必要なのである。

 関東在住の長い学生時代の先輩が「バック、バック」というので、「なんかいな(標準語翻訳=何のことだろう)」と思えば、マックのことだった。(マクドナルドじゃないよ、マッキントッシュだよ。)北方系縄文人の濃厚な関東以北と南方系弥生人の濃厚な関西は、言葉に関する耳の感性が少し異なっているのかもしれない。中国の漢音のバビブベボは、南方の呉音ではマミムメモになる。その対応とまったく同じ感じなのだ。もし、この仮説が成立するなら、関東人の発音するミッキーはビッキーに聞こえるはずなのだが、まだ確認できていない。私の聴力には疑問符が付くから、個人的な聞き取り精度の問題かもしれない。当然、歴史文書の中にもその問題はつきまとう。

2016年11月20日日曜日

忘れられた古代和歌山

 和歌山県は、現在、近畿地方に入っているが、古代の畿内には入っていない。四国、淡路島と同じ南海道である。そのためか古代史の研究でもあまり重きを置かれていないように感じる。データが少ないだけではなく、交通不便で調査には車が不可欠、面倒ということがそれに輪をかけるだろう。東京や九州など遠隔地に住む人は、大枚を投入しなければならないし、現在も印象が希薄な県だから調査という意識すらおこらないはずだ。ところがなかなかたいへんな土地なのである。
 紀氏という、崇神天皇に妻妾を出せるくらいの大豪族の本拠地だった。神功、応神朝の首相的地位にあった武内宿禰後裔の紀氏ならその権威は説明できるが、崇神天皇はそれ以前である。元々、中央で権勢を誇れるだけの基盤を持っていたわけだ。出雲の大国主神も紀伊へ移動している。素戔鳴神も出雲に出現し、その子の五十猛、大屋津比売、都万津比売が紀伊に移動している(神代紀)。天照大神の形代とされる日鏡の一つが紀伊一宮の日前宮に納められている(古語拾遺)。そういったすべてに整合性のある解答を示さなければ歴史を解明したことにはならないのである。神代からそれに続く時代の和歌山北部の重要性を歴史家はつかんでいない。
 以前、桃山町史の編纂を委嘱されたというライターの方からメールをもらったことがある。崇神天皇の妃が、紀の国造、荒河刀辨の娘で(崇神記)、桃山町に安楽川(あらかわ)という地名があることから、地元では「ここだ」と伝承しているのである。私も付近が紀氏の中心地だったと考えて「魏志倭人伝から見える日本」に書いた。他に何かあるのかと興味を持たれたのである。中、近世の歴史が中心ということで、あまりお役には立てなかっただろう。その桃山町も市町村合併で紀の川市になってしまった。消えてしまった町の通史が残って歴史的には良かったのではないか。こちらも弥勒寺という気になっていた寺の情報をもらった。それ以上の手がかりがなくて、古代史と関係するかどうかわからないままだけれど。

2016年11月19日土曜日

金印偽造説

 以前、日経新聞「エンジョイ読書」という欄で見つけた井上章一という人の文章、「古語の謎」という本の書評である。
「かって、中国の漢帝国は日本列島にあった奴国と国交をもっていた。福岡県の志賀島では、そのあかしともいうべき金印が、18世紀末の江戸時代に見つかっている。と、そう私たちは学校の授業でならってきた。この金印については江戸期にでっちあげられたものだという説もある。私はそんな偽造説をうたがってきたが、この本を読み考えをあらためた。今は9割方まがいものであったろうと、思うようになっている。江戸時代には、いわゆる古学が発達した。『万葉集』や『古事記』を読む。それが書かれた時代の読み方をさぐりだし、往時の人々と同じ気持ちになって、あじわいきる。そういう古典読解の機運が高まった。と同時に『万葉集』などと同じ言葉づかいで和歌を詠む人も、ふえてくる。万葉調で書く文章家もあらわれた。擬古文の偽書も、つくられだす。そんないにしえぶりがはやった時代なのである。例の金印が掘り当てられたのは。……」

 江戸末期の国学隆盛期に掘り出されたから金印は偽物だそうだ。あんまり単純すぎるではないか。「奴国に印綬をさずけた」という記述があるのは後漢書で、日本の古文ではない。金印の印面には「漢の委の奴国王」と彫られていて、奴国が後漢の冊封体制に組み込まれていることを示している。これは、日本が神代から独自の文化を発展させてきたと考えたい国学の徒のプライドを逆なでするものだ。逆に、「漢」が入っていることで本物だと言える。私が当時の国学信奉者で偽物をつくらせるなら「奴国王璽」というような文字を彫る。金印は2.3cm角で漢代の一寸に合わせて作られている。考古学のない江戸期にはこんなことは知られていない。一寸3cmだ。金は高価なものである。篆刻書体はデザイン文字で、金印は明らかに専門家によりデザインされている。デザイナーが金印を作れるかというとそうではない。溶けた金を流し込む型をつくらねばならない。つまり、専門職人のチームが必要なのである。それに手間賃を払わなければならない。金の価格+製作費用が必要なのである。紙や石に偽文章を書いたり彫ったりというのとはレベルが違って個人的な仕事では済まない。誰が資金を出すのだ?口封じはどうする?
 ともかく歴史学や考古学の知識をまったく持っていないのに書評とは?こんな浅薄なのを出すと、「古語の謎」という本を持ち上げて紹介するはずなのに、かえって貶める結果になるのではないか。それとも「古語の謎」に金印に関するそういう内容があるのだろうか?それならたいした本じゃない。

金印に興味のある人はホームページhttp://www.eonet.ne.jp/~temb/15/kinin.htmの「魏志倭人伝から見える日本。ファイル2、北九州の各国。奴国と金印」や、「魏志倭人伝の風景、奴国」の項へ

2016年11月17日木曜日

カムイ、ビッキ

 イザベラ・バードはアイヌに外人が訪れたことのない彼らの神社へ案内されたが、明らかに日本式神社で、そこには義経が祭られていたという。その由来はもう誰も知らなかったようだが、御伽草子に、義経が蝦夷へ渡った「御曹司島渡」という話があるから、義経ファンの倭人がそんな話を伝え、神社を作り、神として祭らせたのだろう。明治初期に神社の祠やわずかながらの木の階段が存在していたのだから、それは江戸時代のことと思える。

「アイヌの宗教的概念ほど、漠然として、まとまりのないものはないであろう。丘の上の神社は日本風の建築で、義経を祀ったものであるが、これを除けば彼らには神社もないし僧侶もいなければ犠牲を捧げることもなく礼拝することもない。明らかに彼らの宗教的儀式は、大昔から伝統的に最も素朴で最も原始的な形態の自然崇拝である。」

「彼らの神々は―すなわち彼らの宗教の具体的な象徴は、神道の御幣に甚だ類似したものであるが、―皮を剥いた白木の杖や柱で、頂部近くまで削ってあり、そこから削りかけが白い巻毛のように垂れ下がっている。」(「日本奥地紀行」イザベラ・バード、高梨健吉訳、平凡社)

 アイヌは奈良時代から倭人と接触しており、遣唐使が唐へ連れて行った記録があるし(斉明紀)、コロポックルという小人の先住民がアイヌに入れ墨や漁の方法を教えたという伝承がある。奈良時代以前から民間的な接触があったかもしれない。倭人の御幣が神の依代としてアイヌの中に入った可能性もある。

 日本語の「神(カミ)」の語源はアイヌ語の「カムイ」だという人がいるが、逆ではないか。神(カミ)は天上にいるから上(カミ)なのであろうし、頭の上にある毛も髪(カミ)である。反対語として下(シモ)がある。アイヌ語のカムイにこのような類語があるだろうか。アイヌの研究に関して、古代倭人文化や倭人語の影響がまったく想定されていないように思える。こちらが知らないだけなのだろうか?

ビッキ
「ビッキ」とはアイヌ語でカエルのことだという。しかし、カエルを意味するビッキ類似の言葉には全国的な広がりがある。これも倭語がアイヌ語に入った可能性の方が強い。倭名抄は蟾蜍に和名比岐(ヒキ)と書いている。これは今もヒキガエルと呼ばれている。本草綱目啓蒙(小野蘭山著)にはヒキダ、ヒツキ、ヒキゴ、ヒキゴト、クツヒキ、ワクヒキ、オンビキ、トンヒキ、オホヒキなどの諸国方言が見られる。トノサマガエルをアヲヒキと呼んだり、ヒキはどのカエルにも用いられるようだ。

「蛙」碓井益男著(法政大学出版局)には、「気を以って小蟲を引き寄せて食へば名とすと云う。(大言海)」「蟾蜍は気を以て物を惹く。(甲子夜話)」「此物は、物をにらみて引きよする物ゆゑにいふ名也。にらみて引は常の事也。物をへだてても引くもの也。(老子餘喘)」等の文章が紹介されている。

 目の前の虫を狙っているなとヒキガエルを観察していたら、虫がいきなりヒキガエルの口の中に飛び込んでくる。蛙の舌の動きは人間の目には捕らえられない。この不思議にこういう形で決着をつけ自らを納得させたのである、この説が百パーセントの支持を受けているわけではないが、蛙の餌取りを目にすることなどめずらしくもなかっただろうから、全国的な賛同を得て言葉として残る可能性は感じる。アイヌ語のビッキにこういう関連語があるのだろうか。

 本草綱目啓蒙は、ヒキはヒイキ(贔屓)に由来するのだという説も紹介している。中国などで石碑の台座として重さを支えている亀が贔屓だった。それからの転用で脚をふんばって重みを支えた姿をしている蛙もヒキと呼ぶようになったというのである。しかし、この教養が全国的、庶民レベルに浸透するようには見えないし、カエルを亀と同一視しないだろう。

2016年11月15日火曜日

イボタロウムシ

 H・R・デーヴィス著(19c末~20c初頭)の「雲南」を読んでいたとき、イボタロウムシという言葉が気になったことがある。こちらの追っていることとは無関係だったので調べることはなかったが、その名はずっと心の底に引っかかっていた。先日、日経新聞を読んでいて、それがイボタノキに付くカイガラムシの一種であることを知る。写真を見ると、木の枝の一部が白い泡に包まれているような感じになっている。イボ・タロウではなく、イボタ・ロウの虫だったのである。この虫の雄の出す白い分泌物が、ろうそくやろうけつ染めなどに使われていたという。中国では雲南省、四川省などで、20世紀初めに、年間5000トンも生産していた。まさにこれが「雲南」に記されていたわけだ。そのロウが使われなくなった今では、この虫のことを知るのは昆虫研究者くらいではないか。
 イボタロウムシを代表としてあげたが、昔は、現在より、自然が身近にあった。時代が古くなるほどその傾向が強くなると思われる。生物や天文、地理など、当時の認識から生まれた知識の体系がある。歴史や漢字を調べるにあたっても、それらを頭に入れておかないと足をすくわれかねない。狸(リ)は中国ではヤマネコ類で、タヌキではないとか。

2016年11月13日日曜日

コオロギとキリギリス

 蟋蟀とはコオロギのことだが、平安時代中期の倭名抄は、蟋蟀の読みを岐利岐利須(キリキリス)とし、蜻蛚に古保呂岐(コホロキ)の読みが付けられている。コオロギにも何種類かあるので、書き分けがあったのかもしれない。漢和辞典ではどちらもコオロギになっている。その鳴き声を聞くという漢詩があって、同じ虫かどうかはわからないが、いずれにしても鳴き声の印象に残る虫であることに変わりはない。中国は広いので、片方は日本にはいない虫かもしれないし、地方による呼び方の違いが残っていた可能性もある。
 促織が和名、波太於利米(ハタオリメ)で「鳴き声が急ぐ織機の如し」とあるから、こちらがチョンギースと鳴くキリギリスである。
 芭蕉は、「むざんやな 甲の下の きりぎりす 」と詠んでいるが、甲の下に隠れるのは地を這うコオロギである。こげ茶色の体色が土にまぎれる保護色になっている。キリギリスの緑は草の上で生活することを示している。
 江戸期まで、確かにキリギリスはコオロギであった。いつから、ハタオリメだったキリギリスがキリギリスになったのだろうか。あー、ややこしい!
 明治時代のイソップ翻訳「蟻とキリギリス」か?英語では「The Ant and the Grasshopper」というから、「蟻とバッタ」である。英語では、飛び跳ねる草虫はみんな「Grasshopper」のひとくくりで、まったく関心を持っていない。コオロギは「Cricket」という。
 鳴き声を楽しんだり、感情移入して聞くというのは音楽に近く、やはり、コオロギに対してだろう。チョンギースには壊れたバイオリン弾きといったイメージしかわかない。イソップ物語の夏の間歌って遊んでいたというキリギリスなら、やはりコオロギの方が似合うから、イソップ翻訳でもキリギリスはコオロギのことらしい。
 そうなるとどこで入れ替わったのか。子供の頃、夜店でキリギリスは籠に入れて売っていたが、コオロギは民家の庭にでも住んでいる身近な虫だった。案外、夜店のオッサンのキリギリス間違いが全国に広がったのだったりして。歌や俳句を詠むような文化人は間違えないだろうから。

 イソップ翻訳者は歌う虫ということで、Grasshopperをコオロギのつもりで、キリギリスと翻訳した。原本の挿絵はミドリのバッタであったら、翻訳と挿絵の間に齟齬がおこり、ミドリのハタオリメがキリギリスに化するかもしれない。

2016年11月12日土曜日

照葉樹林文化は存在しない  

何の知識も持っていない学生時代に「照葉樹林文化」「続照葉樹林文化」という中公新書を読んで、稲作の起源は雲南、照葉樹林帯の雑穀農業であるという説を鵜呑みにしていた。自ら日本、中国の古代史を調べる今では、東アジア、東南アジアの民族移動がぼんやりつかめるようになり、それをはっきり否定できる。
 照葉樹林文化という言葉が気になっていたところ、佐々木高明著、「照葉樹林文化とは何か」(2007/11月刊行)という本を見つけたので読んでみた。「照葉樹林文化」「続照葉樹林文化」の続編だ。著者は「続照葉樹林文化」の三人の著者のうちの一人である。当時の中心的なメンバーだから、照葉樹林帯では雑穀・根菜型の焼畑農耕やモチ種の開発・利用、飲茶、納豆、高床住宅、歌垣、神話の類似など、日本もそこに含まれるが、きわめて多岐にわたる共通の文化的特色が存在することを採り上げて、照葉樹林文化という言葉に固執する。執筆している前半部は突っ込みどころ満載である。しかし、日本に茶が伝わったのは室町時代だし、コンニャクだって時代不明である。雲南の滇などの文化は、楚の文化が移動したものだと史記西南夷列伝を読めばわかる。つまり、長江流域の苗系民族が雲南に移動することでその文化が伝播しているのである。民族移動や後世における作物の受容をまったく考えずに、現在の特色が一致すると言うことで、雲南に照葉樹林文化のセンターがあったとする。そこに問題がある。
 後半の弟子クラスの人々との対談を読むと、稲作は長江中流域で発展し、雲南へ上ったと、現在は正しい流れになってきていることがわかった。居住している苗系、タイ系民族も元々は低地にいて、山に追い上げられたものだとする。妥当である。中国の文献からそれは割り出せる。つまり、照葉樹林という森に育まれた文化ではなく、照葉樹林の縁辺部、水の豊かな土地で発生した文化が、照葉樹林を破壊する形で侵入したものだ。焼畑作物にしても、アワ、ヒエ、サトイモなど、草原や水辺の産物だろう。縄文のドングリを食べる文化なら照葉樹林文化という名が当てはまるかもしれない。しかし、弥生文化やその親である中国江南文化はまったく別物である。照葉樹林文化という文字から受ける印象と、文化の内容が一致していない。こういう誤解を招く語句の使用は止めるべきである。
 苗系民族の土台はマライ・ポリネシア系民族である。そこに北方アルタイ系言語の民族が融合する形で生まれている。太平洋島嶼のマライポリネシア系民族がタロイモ(サトイモの英名タロだそうだ)を主食にすることを考えると、モチの粘りを好む性質に説明が付けられる。焼き畑にしても、照葉樹林帯の中で発達したものではなく、低地から山に登ったものではないのか。雑穀に限らず農業というのは全て、森林の破壊から始まっている。最初から森林内で発展したとするより、森林縁辺部の草地から有用な植物を見出して生まれたと考えるべきだろう。それが証拠に、照葉樹林におおわれていた日本の縄文時代はドングリや魚、動物などを食べる漁猟採集文化である。栗や栃の木を育てるというような果樹の栽培はあったかもしれないが、それは雑穀栽培農業にはつながらない。焼き畑も照葉樹林帯が育んだ文化ではなく、域外からの移入文化なのだ。
 古代史を調べて、過去の大権威がいかにあやふやなものであるかを知った。民俗学にしても、柳田国男など、単一民族、単一言語を前提にするから根本的に誤っている。稲作の起源も書き換えられる時が来たようである。
 日本語の語彙からみて、縄文時代にマライポリネシア系民族が渡来していたことを疑えない。日本の縄文晩期や弥生式農耕の母体として朝鮮半島や中国江南がある。雲南や東南アジアの農耕は土着のマライポリネシア系民族の農耕と中国華南からの民族移動により広まったものが融合している。雲南と日本に共通要素があっても、それはマライポリネシア系の基礎の上に中国江南農耕が東西に拡散して生まれたもので、雲南の照葉樹林帯で生まれたものが日本へ伝わったわけではない。中尾佐助の「照葉樹林文化」という絶妙なネーミングと魅惑的なイメージに酔わされ、それを印刷媒体が持ち上げていただけのことである、言葉のみで実態がない。ヒマラヤ山麓から日本にまで広がる広域の照葉樹林文化というものは存在しない。照葉樹林を破壊して生まれる文化なのである。

 池橋宏著、「稲作の起源(講談社選書)」では、水田稲作は、サトイモなどの水辺の根菜栽培、株分けによる栽培に起源を持つのではないか、稲も最初は株分けで栽培されたとされている。水田や溜め池は養殖池ともなり、漁労とも深く関係している。山の焼き畑による雑穀農業が麓に降りてきて水稲栽培を考案し、再び山に上がったという考え方より、最初から低湿地帯で発展した水稲栽培が山に上がったという考え方の方が、よほどスマートである。水稲栽培は水を施すだけの単純な灌漑農業に比べ、苗代や水田、水管理施設の工事など複雑すぎるのである。種まき雑穀栽培からはあまりにも飛躍が大きく無理が感じられる。最初から、そういう水っぽい環境の中で基礎技術を習得したと想定すべきであろう。
 「照葉樹林文化とは何か」の後半には、株分けでの稲作は想定しがたいと書いてある。そういう稲は種子を付けないらしい。環境ストレスで種子を付けるようになった稲を見つけて栽培が始まったという。

2016年11月10日木曜日

NVIDIAディスプレイドライバの応答停止と回復

NVIDIAディスプレイドライバの応答停止に対するアクセスが止まりませんので、元の使用状態に戻るまでの経緯をまとめておきます。結局、ビデオボードを交換することでしか解決できませんでした。なんの問題もなく使えていたのに、突然、異常が起こる。ハードではなくドライバの問題のようです。windows7のアップデートと係わりがあるように思えますが、専門知識はないので、確言はできません。NVIDIAはこのユーザーの悲鳴に対応できないのでしょうか。

2014/8/7 ネットサーフィンしていたら、突然、画面が黒くなった。わけがわからなかった。パソコンがいきなり勝手に終了してしまったらしい。電源を入れ直したら、モノクロの、異常終了したという表示と起動の選択画面が出た。セーフモードで起動。一応、デスクトップにたどりつけたので、ハードディスクのクラッシュではないらしい。コントロールパネルを出して復元を試みる。しばしの時間が経って、復元したはずなのに、パスワードの入力画面を呼び出せず、何やらわからないアルファベットがいっぱいのブルー画面になって、再び起動の選択画面が出る。無限ループにはまったのではないかという不安に襲われる。何度か試みているうちに復元に成功。いつもの招き猫のパスワード入力画面が出た。Windows7起動に成功して、デスクトップ画面に。いきなり真っ赤になったカスペルスキーに怒られた。あわてて定義ファイルの最新版をダウンロード。こっちは何にもやっていないんだけど、何でこうなる。最悪の場面と羽が生えて飛んで行く札束を想像してしまった。Windowsが勝手に直せるていどの故障でよかった。

8/10 画面が一瞬真っ黒になったあと回復して、「ディスプレイ ドライバーの応答停止と回復 。ディスプレイドライバーNVIDIA Windows Kernel Mode Driver が応答を停止しましたが、正常に回復しました。」というようなバルーンが出た。この前の不調はビデオボードとドライバーの問題だと理解できた。 「NVIDIA、カーネル停止」でググったら、大量に出てきた。以前からNVIDIAのビデオボードで話題になっているトラブルだったのだ。頻発すると書いてある。そうなのかと軽く考えていたら、一日たって、こっちにも頻発するようになった。「今まで無事に使えていたのに何で。」って思う。ともかく徹底的な対策をとらなければパソコンを使えなくなってしまう。最悪ビデオボードの交換だ。 いろいろ書いてある修正法をながめながら考える。一番簡単だと思ったのは次の「ヤフー知恵袋」の解答で、これを試してみることにした。マイクロソフトのサポートなので問題はあるまい。

「ベストアンサーに選ばれた回答 shilfeed3104さん。2014/4/1313:26:14 「ディスプレイドライバの応答停止と回復」は、そのドライバが古いために起こっているのではありません。http://support.microsoft.com/kb/2665946/ja ↑表題のエラーに関するMicrosoftのサポートページ

原因についてはいくつかあるようですが、かなり多くの発生例があるようです。リンク先のページを参考に修復してみてください。」

取りかかる前に、データをDVDに保存。パソコンが壊れても金で解決できるが、集めたり書いたりしたデータはそうはいかない。 さあ!実行。「Fix it」というボタンを押せばやってくれるというので、押す。レジストリを書き換えるらしい。説明は書いてあるが理解不能。それをすませた後、方法2として、「最新の更新プログラムをインストールする」があり、それに従い、Windows Updateを使って、ドライバーを更新。さてすんだと、再起動したら、NVIDIAから最新ドライバーが利用可能だというアイコンが出て、ついでにやってやれと入れ替える。 今のところ解決できたように思える。そうあってほしい。何日か怯えながら使うことになる。

8/13 マイクロソフトもまったくあてにならんわ!!いじるたびに具合が悪くなって、Windows7の起動すらできなくなった。最新ドライバーも効果なし。セーフモード起動は可能なのでファイルをいじったりはできる。いつまでたっても同じことの繰り返しになり、どうせ壊れたんならかまわんと、ネットで、こいつの干渉の問題らしいと指摘されているwindows-system32-driversの中にあるnvlddmkm.sysを削除してやった。 何にも期待せずに再起動したら、Windows7が簡単に起動。デバイスマネージャーにはディスプレイドライバーがないという表示が出ていた。削除したやつのことらしい。以前と同じようにどのソフトを複数起動しても問題がない。ただ、代用に使っているやつが古すぎるのか、画面の解像度が1600*1200どまりで、1920*1200のこちらのディスプレイでは何もかもが横長に表示される。ともかくハードの問題ではないことがはっきりした。 Windows7が最初から用意しているやつを新しいものに書き換えるという作業に挑戦してみる。それでダメならグラフィックボードの交換だ。

8/14 深夜、ネットに書いてあったWindows-winsxs内のnvlddmkm.sysを最新のものに置き換えると言う作業に着手。システムファイルなので、ずいぶん手間がかかる。ネット上の知識だけではダメで、上の階層のフォルダーの所有者をアドミニスレータに変更することで、ようやく可能になった。ファイルを置き換えて再起動すると、何日かぶりに1920*1200の正常画面があらわれた。あまり負荷をかけないようにして、マルチタスクも可能。「明日どうなるだろうか」と期待を持ちながら眠りについたのに、マイクロソフトがアップデートで16ものファイルを新たに入れてくれたのである。それが影響したのかどうかはわからないが、元の木阿弥。 ネットに書いてあったことはすべて試した。もはや手の打ちようがなく、ビデオボードを交換するしかない。ソフトの問題ではなく、ビデオボードの高機能な部分に何らかのトラブルが出たのかもしれない。 Windows-system32-driver内のnvlddmkm.sysを削除しておけば、1600*1200サイズでの起動は安定して可能だから、使えることは使える。ディスプレイが1600ドットを1920ドットの画面サイズ一杯に引き延ばしてくれるから、横長になるだけである。 出たついでに日本橋へ寄り、ビデオボードを買おうとしたが、規格がいろいろあって、うちのものがどれなのか解らない。すごすごと帰る。明日、出直しだ。

8/15 朝、ゲートウェイのシールを切って、パソコンのサイドを開ける。初期不良以外のメーカー保証なんて当てにしていない。ネジ二つ外すだけで簡単に開けられた。扱いやすく、しっかりした良いケースだ。漏斗型のカバーの底でファンが付いているのがCPU。ケースの横の穴からその熱を出せるようになっている。今まで、何の意識もせずにそこに本をもたせかけたりしていた。ちょっと気をつけないと。その下にばかでかいビデオボード、NVIDIAのGeForh GTX 480がスロットを二つ分占拠して取り付けられている。下のスロットから熱気を排出しているらしい。CPUよりこっちの方が迫力がある。固定ネジを外し、力を入れて引っぱる。こいつは壊れてもかまわないが、基板を傷つけたりしてはいけない。取り付けられているPCIexpress・2.0スロットは拍子抜けするほど細くて小さかった。ともかく中の構造はわかった。

NVIDIAはこりごりだから、ATIのやつを買おうと思って日本橋へ向かう。最初に目に入ったPCワンズへ。大きな箱に入っている最新のやつはPCIexpress・3.0と書いてある。動くかどうかわからない。3Dゲームはやらないから、小さなやつと探して、PCIexpress2.1(*16)と書いてあるATI RadeonHD5450搭載の玄人志向グラフィックボードを見つけた。これはネットで調べたGTX480とほとんど同じ規格。そばにいた店員さんに、PCIexpress2.0でも動くことを確認してから購入した。¥3280なり。

帰宅して、箱から取りだしたビデオボードはびっくりするくらい小さく、ファンも付いていない。あらためて箱を見たら「ファンが無く音が”静か”な放熱設計」と書いてあった。容積は四分の一か五分の一に減ったのではないか。元々、スピードが速くて、ハードディスク容量の大きなパソコンを求めたら、オーバースペックのビデオボードが付いていただけで、この新しいビデオボードの方がこちらの使用法に合っているのだ。PCIexpressスロットに押し込む。固定ネジを締めて作業終わり。簡単。サイドを閉め、コード類を付けてパソコンを起動。無事に表示された。Windows7が勝手にドライバーをダウンロードし始める。これは楽ちんと眺めていた。ダウンロードが終わって、画面のプロパティから表示を1920*1200に替えようと思ったら、そんな数字がない。1920とコンビを組むのは1440のみ。横縦四対三のディスプレイにしか対応していないのだ。今時、横長ディスプレイに対応していないビデオボードがあるか。Windowsはどこから引っぱってきたのだ。ボード付属CDのドライバーを入れる。動いているのかと不安になるくらい時間をかけて入れてくれた。再起動すると、画面は自動的に1920*1200になっていた。一件落着。どのソフトを動かしても問題なし。盆休み全部つぶれるかと思った。ああしんど。

8/20 マイクロソフトのアップデートで、Windowsの起動が不可能になる不具合がでるというニュースに接し、自分のパソコンを調べてみた。おー!きっちり入っとるわ。KB2982791、KB2970228の二つ。でも、何の影響もない。この前、NVIDIAのグラフィックボードで起動不能になったのは、やはりアップデートのせいだったのかもしれない。深刻な状態になっているのはNVIDIAボードを使用しているパソコンではないか?  異常がなくても削除しろというが、面倒なことを書いてあって、手をつけかねていた。調べているうちに、異常の起こっていないパソコンでは、コントロールパネルのプログラムのアンインストール。インストールされた更新プログラムを表示させて削除すれば良いというのを知り、それなら簡単と済ませた。ちょっと安心。NVIDIAのGeForce GTX480が使えなくなったのは、アップデートに問題があったのではという気がだんだん強くなる。ドライバーを外せば使えたのだから。ハードは問題ないのかもしれない。  ATIのRadeon使用のグラフィックボードに変えてからは面倒なトラブルは起こっていない。が、「Milkdrop for aimp」を使おうとしたら、「これは3Dアクセラレーテッド・ディスプレイアダプターがお前のコンピュータに見つからないことを意味する」なんて表示が出て拒絶された。3D文字のスクリーンセーバーを使っていたのだが、より新しい種類のビデオカードが必要だとのたまう。デスクトップのAeroも効かない。遊びの部分でいろいろ制約が出てくるようだ。今まで何でもできただけにさびしさがある。もの足りなくなったら新しいものを買うかもしれない。

8/21 ATI RadeonHD5450は3Dを使えないのだろうかと気になってググったら、最新のドライバーを入れたら3Dも可能になると書いてあった。玄人志向ももう少し新しいドライバーを用意してくれよと思うが、「ダウンロードを思いつかないような素人は手を出すんじゃねえ」という商品なんだろうな。  さっそくAMDのドライバーサイトへ行って、ダウンロード、インストール。AUTOというボタンがあったので押したら、必要ドライバーの検索など全部自動的にやってくれた。全部すんだ後でデスクトップ右クリックしてスクリーンセーバーを見たら、3D文字が表示されていて効いたのがわかった。アエロも使えたし、「Milkdrop for aimp」も起動できて、ようやく元の環境が戻った。GeForth GTX480に比べて大幅に省エネになっているはず

2016年11月8日火曜日

トランプに投票せい

「古代ニュース」もブログも、やっと形が出来て、一息つけた。発端はeoブログのサービス停止通知で、ドタバタはたいてい外部からもたらされる。面倒だが、解決したとき、新しい地平が切り開かれたりもする。
 今後、旧ブログから、残しておきたいものをピックアップする作業に取りかからなければいけない。それをどういう形にするか。サイトもブログも複数作れるようだから、試してみたい。

グーグ・アナリティクスに「abcdeg.xyz」というわけの解らないものが入って、何かと思って調べれば、「トランプに投票せい」というやつだった。世界中のアナリティクス使用者に無差別にばらまいているらしい。以前にも何か迷惑なやつがあったが、いつの間にか来なくなったから、グーグルがシャットしたのだろう。ソフトの穴を突いてくるもので、こちらには防ぎようがないという。在外米国人に対するアピールだろうが、こういう何でもありの卑怯なことをするのはかえって逆効果ではないか。それとも技術力の高さを称賛されるのか?アメリカ人の考えることだからわからない。

2016年11月6日日曜日

「古代史ニュース」の移転完了

  「古代史ニュース」を「Jindo」から「Googleサイト」へ移転する作業で、昨夜はほぼ徹夜になった。Googleサイトも使いにくいが、Jindoよりはましというところ。ファイルの表示順でJindoは限界を感じた。Googleサイトは番号を振っておけば小さい順に表示してくれるということをネットで知り、これなら使えるということになった。納得できるようになるまで、作っては削除しという試行錯誤を繰り返した。これから作り慣れていけば、もう少し自分の色を出せるのではないか。あまり自由はきかないようだ。Jindoの方は削除しても良いのだが、やり方が解らないので放置。
 ホームページ「古代史レポート」からのリンクもすませて、やっとブログと古代史ニュースを以前のように使える形が整えられた。
 しかし、グーグルはすごいわ。サービスを次から次へと、こんなに広げていくから、企業の勢いが落ちないんだろうな。いつの間にかライバルがいなくなっている。

 古代史ニュースに、「糸島市で発見されたすずり」と「彦根市で発見された古墳時代前期の大型建物跡」の二項目を追加。Jindoで困ってストップしていたもの。

2016年11月4日金曜日

アナリティクスのやり直し

  昨夜はブログの立ち上げに時間を食った。一から始めようと、アカウントの作成から取りかかり、以前のアカウントを削除した。何の影響もないと思っていたのに、ホームページのアクセス調査をするグーグルアナリティクスの存在を忘れていたのである。データが全部消えて、こちらも一からやり直すことになってしまった。やっと終わって、一息ついたところだ。
 Jindoで作っている「古代史ニュース」もグーグルサイトに移そうかと思っている。一番前へ持っていきたい新しいデータを最後尾にしか作れない。移動は出来るのだが、手間がかかる。データが何十、何百となるとお手上げになってしまう。それで更新がストップしてしまった。グーグルサイトが使えるかどうかはわからないが、Jindoがダメというのは結論が出ている。ブログでも作れるのかな?

ブログの引越

 eo.net から、来年の3月31日でブログサービスを打ち切るという通知が来た。以前、契約プロバイダーの倒産やら、営業譲渡やらでホームページ、メールアドレスが転々とした。そんなことを避けたくて、関電系列の eo.net を選んだのに、何をしやがる。と思ったところでどうしようもない。
 無くなるのがわかっているところに書き込む気はしないので、さっそく新しいブログサービスを探し始めた。ネットで調べたところFC2の評価が高かったが、経営者が逮捕されたりというのは知っていて、あまりイメージが良くない。規模からいったらグーグルがダントツで、一番、安心感がある。Gmailも登録したし、こんなにグーグルに頼って良いのかという気もするが、ま、ここに落ち着こうと決めた。
 ホームページ「古代史レポート」のファイル更新の履歴や、ちょっと脇にそれた文を残すために使っていた。あとはパソコン関係。トラブルの報告が一番多かっただろう。
 書くネタが毎日生まれるわけではないので、最近は月に四、五回くらいしか書いていなかった。今後もそんなものだろう。