2022年10月29日土曜日

邪馬壹国と邪馬臺国(Hyena-no-papa氏の問題点)

時々、エゴサーチして、人が私のレポートのことをどう書いているかを調べる。否定する人がどこで躓いているかを知り、それを解消するために、調べ直し、文を書き変えたりして、こちらのレポートをよりやさしく解りやすくするのに役立てている。

後漢書の邪馬臺国には「案今名邪摩惟音之訛也」という注が入っている。Hyena-no-papa氏がツイッターに「今名を案ずるに邪摩惟音の訛なり」というのは誤訳だと書きこんでいた。惟は堆の間違いで、「今名、邪馬堆は音の訛なり」と読みたいらしい。この人は非常に漢籍に詳しい人だが、考え方がシンプルで、後から出たものは、先に出たものを踏襲しているとする。魏略の方が早いので、魏志はそれを引き写しているとか。出版が早い方が原型だとか。

魏志、魏略より詳しい共通の資料があったことを考えないし、出版が早くとも、後から出た誤った写本を採用していたら、新しい出版の方が古く正しいものを写しているかもしれない。史書編纂者による書き換えの可能性も想定外である。様々な可能性があるのに、順番も狂わないし、そのまま引用されているという一本の道しか見ていない。

史書編纂者の書き変えを想定できないのは致命的で、范曄、後漢書がすでにそういうことをして、魏志を改定しながら引用している。倭のことを何も知らない范曄がなぜそういうことを出来たかと言えば、東晋の413年に王名を欠いた倭の遣使、宋書421年と425年の倭王讃の遣使の記録があるからである。乏しいとは思うが、倭の最新情報が、後漢書編纂直前に入っている。隋書や梁書等の唐代の史書編纂時も、遣隋使の派遣、裴世清の日本渡来、遣唐使の派遣で倭の最新情報が中国に入っており、それに基づいた古代情報の改定がなされ得るのである。みんな頭をフル回転させて考え、正しい歴史だと思ったことを書いている。書いている人間が馬鹿ではないからそうなるのである。考えずに、書き写しているだけなら、内容は何も変化せず、文字の転写間違いが起こる程度であろう。

Hyena-no-papa氏の躓きを解消するために、「魏志倭人伝から見える日本」の改訂版に次の文を加えてある。

1 別の書にまたがる五文字、どちらもタイからイ(ヰ)への転写間違いを想定するのは、あまりに都合が良すぎる(臺→壹4。堆→惟1)。そのような頻度で起こり得るか。

魏志倭人伝中に、壹と臺の書き分けがあり、「臺に詣(いた)る」の臺を中国人が間違えることはあり得ない。すぐ前の文脈中に見られる臺與を壹與に書き間違えるという想定は不自然である。もう一つ前の文脈には臺與が二回記されていることになり、どちらも間違えれば、すぐに気付く範囲にある。

2 倭人の「ヤマト」という発音に対する表記である邪馬臺(後漢書。宋代)、邪摩堆(隋書。隋、唐代))を別音だと考える根拠はなにか。倭の都はヤマトで、宋代から唐代まで、変化していない。

唐詩では、「臺」と「堆」は韻を踏まれているし、漢書にある唐の顔師古の注に、堆の音は「丁回の反(Tei+kai=Tai)」と書かれ、タイ音だと示されている。臺は坮と同字、これもタイ音である。唐代の臺、堆が同音だと「音の訛」という後漢書李賢注(唐代)は無効かつ不要になる。つまり、転写間違いはなく、後漢書注の記す邪摩惟が正しいということになる。

3 卑、奴、邪、狗など、魏志倭人伝の国名、官名、人名などを表す文字の使用法をみると、明らかに倭を蔑視して選択している。同じ人物が、タイ音の文字はたくさんあるのに、魏朝廷を表す臺という文字をわざわざ選んで使用するか。高堂隆と王粛の二人に「魏臺(雑)訪議」という書があり、魏臺での明帝や官僚、著述者との問答が記されている。明帝がその魏臺のトップである。(王粛の「魏臺訪議」は、高堂隆の著作のパクリと思われる。自分の著作のように装って、自説に置き換えている。「孔子家語」で同じことをしているらしい。)

「邪馬臺」と「邪摩堆」は、中古音がどうとか、音が違うと主張されているのだが、お偉い学者さんがそう言っているだけのことで、音を聞き比べた現代人はいない。唐詩や顔師古注を見ると、臺、堆は明らかに同音である。

どちらも「ヤマト」という倭人の発音を中国人が聞き取り、それを表すために選んだ文字なのである。時代が異なり、その発音に馴染める使用文字が変わっただけで、どこに「音の訛」が生ずる余地があると言うのか。加えて、原文では「堆」ではなく「惟」であるから。文字の伝写間違いまで主張しなければならない。

氏の、上記三つの問題点に対する見解をお聞きしたいものだ。こちらが納得できるものであれば、改めることにやぶさかではないが、まあ、自分を傷つけないためにスルーするだろうな。読み比べた人が、どちらが正しいかを考えてくれればそれで良かろう。