2016年11月29日火曜日

古田武彦氏の二倍年略など

古田武彦氏の二倍年略
 古代は自然依存度が高かったから、季節の順調な推移を願うこと現在の比ではない。干害をおそれ、冷夏をおそれ、すべて神頼みだった。
 その季節の変動は太陽の運航がもたらす自然現象である。地球が太陽を一周する時間が太陽暦の一年となり、それが十二ヶ月にわけられている。月の満ち欠けを基準にする太陰暦は、長期になると季節が狂うが、うるう月を入れて十三ヶ月にすることで補正した(太陰太陽暦)。中国の太陰暦では太陽暦と同じ天体時間が意識されているのである。日本もそれを受け入れた。これは四季のある土地での農耕という社会生活に根ざしているのだろう。イスラム社会では純太陰暦だというが、熱帯の砂漠地帯だから、四季の変化に乏しく、季節の狂いがあまり意識されないように思われる。
 魏志倭人伝の裴松之注に、「魏略曰く」として「その風俗では、正月や四季の区別を知らず、ただ春に耕し、秋に収穫することを数えて年期としている。」という記述がある。暦がなく農耕の一巡で年を数えているというのである。古田武彦氏はこの記述をとらえて、耕して一年、収穫して二年というふうに、現在の一年を二年に数える二倍年暦という不思議なものを案出している。二年が現在の一年と考えれば、倭人伝の記述の百や八、九十の長寿者が多いという記述が四、五十代のことになり、現実的だというのである。
 しかし、それでは長寿とは言えない。農耕にしても、耕したあと何もせずに過ごすわけではない。草取りなど日常的な管理が続けられ、収穫でやっと区切りがつけられる。耕地から収穫までの作物の成長過程が一連のブロックとして意識されるだろう。一農業年が一年と考えるのが普通である。山の雪の形やカッコウなど鳥の鳴き声で農耕の始め時を知るという習俗も太陽と地球の位置関係から派生する。つまり一太陽年に基づく習俗なのである。それが一つのブロック、つまり年期として意識されるのが当然である。「春秋いくつ」という年の数え方が昔からある。周の穆王は即位時に「春秋すでに五十」と記されている。周初期の年齢の数え方が同じだったのだ。穆王は断じて25歳ではない。孔子の編んだ歴史書が「春秋」である等、古田氏に対する反証はいくつもあげられる。ほとんど相手にされていない説だから、むきになって否定するほどでもないのだが。


古田武彦氏の長里、短里
長さを表す「尺」という文字は、指を広げて測っている象形だという。「歩」は一歩の距離を表す。魏代は1.447メートルで、ちょっと大きすぎる。足を思いきり開いた長さなのかと疑問だった。調べたら、一歩といっても左右の一歩ずつで、現代日本の感覚なら二歩である。それなら納得できる。元の形に戻るから、そこから次の一歩が始るという発想のようである。ちなみに私の一歩は1.28メートルであった。
 これらは、元々は別個に存在した単位なのだろう。秦の始皇帝が中国を統一し、度量衡を統一した。度が長さ、量が体積、衡が重さを表す。この時、6尺が1歩と定められた。戦国時代は各国でバラバラだったということにもなる。尺が基準単位である。6尺が1歩、300歩が1里だから、1里は1800尺になる。こういうふうに、長さを測る単位は一つの体系のなかに位置づけられる。
 古田武彦氏は短里というものがあったと主張するが、この単位体系を外した形で考えなければならない。ある山の高さが短里で考えれば一致するというようなことを書いてあったが、山の高さは測る位置によって異なる。海抜3776mの富士山も、富士吉田市から測れば3000メートル程度である。その山の高さをどこから測ったか解っているのだろうか。現在の標高なら、海水面をゼロとするはずである。現在の標高と古代の里であらわされた高さが一致するというなら、古代に海抜という現在の地理学的発想があったことを証明しなくてはならない。すべて、何の検証もなしに都合の良い数字だけをピックアップしているのである。
 魏志倭人伝に書かれた距離の数字が絶対的に正しいと扱う根拠はいったい何だろうか。朝鮮半島から三つの海峡を渡って九州に渡来するわけだが、すべて千里と表わされている。実際には最後の壱岐と唐津の間はかなり短い。普通、だいたいこんなものと適当に選んだ距離と考える。距離が正確という前提そのものが間違っているわけである。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/1/wajinden_2.htm(魏志倭人伝から見える日本2)


古田武彦氏の姿勢
 古田武彦氏がなぜ二倍年暦や長里、短里というような理不尽を案出したかというと、魏志倭人伝に書かれた文字はすべて正しいという立場に立つからである。読んでいる人間が同じ書物の中で、単に「~里」と書いてある部分を、ここは長里、ここは短里と区別できるかとか、帯方郡使に距離を正確に計る能力があったかとか、一年を二倍に数えた裏付けはあるのかとか、人間の現実的方向からの思考、チェックというものはいっさい放棄されており、書物からの想像だけですべてを動かしている。しかし、歴史は人間の過去の現実である。常識的な判断力を持つ人間からみれば氏の主張は妄想でしかない。
 文献が真実かどうか、他の文献や考古学資料、伝承などと比較して過去の真実を探る。それが歴史学である。したがって、文献を鵜呑みにして、つじつまのあう説明を見つけようとする古田氏のアプローチは、歴史ではなく文学に類するものだ。ホラ話として読んでおけばいい。
 中国の文献を絶対視して鵜呑みにするという方法は中国文献崇拝史観とでも言うべきか。氏が批判する、記、紀を鵜呑みにした戦前の皇国史観と、方向は違えど同じ立ち位置にある。それに気づいていないようだ。色眼鏡をかけて見ているから、当然、本当の色は見えない。


古田武彦氏の死去に思う
 この人が邪馬壱国説を出し、朝日新聞社が後押ししなかったら、古代史は学者間で細々と語られているだけだったんじゃないか。学者なんて当てにならないぞ、自分で研究しても良いんだぞと一般人に気付かせた。そう考えれば功績はムチャクチャ大きい。理科系と違って、高度な数学や高価な機械は必要ない。漢文さえ読めれば良いのである。あとは自分の発想力の問題だ。専門知識を一般化されてしまった学者達はさぞ迷惑だったろう。考古学的な発見はあっても、今さら新しい文献は出てこない。古代の文献史学は、学者と同じ土俵で競えるのである。私も古田さんの影響を受けているわけだ。
 邪馬壱国なのか、邪馬台国なのか。中国史書間に不整合があって、様々な文献を照合した結果、古田さんの魏志倭人伝、邪馬壱国説が正しいと結論を出した。後漢書の時代までに、王朝交代に伴う地名変更があったと考えればすべてが整合するのである。調べているうちに、王朝交代というより、数代後の神功皇后があちこちの地名を変更しまくったらしいとおぼろげに見えてきた。奴(ど)から灘(な)へ。投馬(とうま)から鞆(とも)へ。津(つ)から難波(なには)へ。狗奴(こうど)から名草(なくさ)へ。邪馬壹(やまうぃ)から邪馬臺(やまと)へ。すべて神功皇后にゆかりの深い土地である。水を意味する「な」という言葉がお気に入りだったらしいとも思える。
 古田さんに賛同できるのは邪馬壱国説のみ。しかし、それすら最初はアホくさいと思っていたのである。疑問を感じれば自分で調べれば良いのだときっかけを与えてくれた。古田さんの主張のほとんどすべてに否定的だったため、いままで考えもしなかったが、歴史に関しては、一番影響を受けている。感謝とともに、ご冥福を祈りたい。

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