2016年11月12日土曜日

照葉樹林文化は存在しない  

何の知識も持っていない学生時代に「照葉樹林文化」「続照葉樹林文化」という中公新書を読んで、稲作の起源は雲南、照葉樹林帯の雑穀農業であるという説を鵜呑みにしていた。自ら日本、中国の古代史を調べる今では、東アジア、東南アジアの民族移動がぼんやりつかめるようになり、それをはっきり否定できる。
 照葉樹林文化という言葉が気になっていたところ、佐々木高明著、「照葉樹林文化とは何か」(2007/11月刊行)という本を見つけたので読んでみた。「照葉樹林文化」「続照葉樹林文化」の続編だ。著者は「続照葉樹林文化」の三人の著者のうちの一人である。当時の中心的なメンバーだから、照葉樹林帯では雑穀・根菜型の焼畑農耕やモチ種の開発・利用、飲茶、納豆、高床住宅、歌垣、神話の類似など、日本もそこに含まれるが、きわめて多岐にわたる共通の文化的特色が存在することを採り上げて、照葉樹林文化という言葉に固執する。執筆している前半部は突っ込みどころ満載である。しかし、日本に茶が伝わったのは室町時代だし、コンニャクだって時代不明である。雲南の滇などの文化は、楚の文化が移動したものだと史記西南夷列伝を読めばわかる。つまり、長江流域の苗系民族が雲南に移動することでその文化が伝播しているのである。民族移動や後世における作物の受容をまったく考えずに、現在の特色が一致すると言うことで、雲南に照葉樹林文化のセンターがあったとする。そこに問題がある。
 後半の弟子クラスの人々との対談を読むと、稲作は長江中流域で発展し、雲南へ上ったと、現在は正しい流れになってきていることがわかった。居住している苗系、タイ系民族も元々は低地にいて、山に追い上げられたものだとする。妥当である。中国の文献からそれは割り出せる。つまり、照葉樹林という森に育まれた文化ではなく、照葉樹林の縁辺部、水の豊かな土地で発生した文化が、照葉樹林を破壊する形で侵入したものだ。焼畑作物にしても、アワ、ヒエ、サトイモなど、草原や水辺の産物だろう。縄文のドングリを食べる文化なら照葉樹林文化という名が当てはまるかもしれない。しかし、弥生文化やその親である中国江南文化はまったく別物である。照葉樹林文化という文字から受ける印象と、文化の内容が一致していない。こういう誤解を招く語句の使用は止めるべきである。
 苗系民族の土台はマライ・ポリネシア系民族である。そこに北方アルタイ系言語の民族が融合する形で生まれている。太平洋島嶼のマライポリネシア系民族がタロイモ(サトイモの英名タロだそうだ)を主食にすることを考えると、モチの粘りを好む性質に説明が付けられる。焼き畑にしても、照葉樹林帯の中で発達したものではなく、低地から山に登ったものではないのか。雑穀に限らず農業というのは全て、森林の破壊から始まっている。最初から森林内で発展したとするより、森林縁辺部の草地から有用な植物を見出して生まれたと考えるべきだろう。それが証拠に、照葉樹林におおわれていた日本の縄文時代はドングリや魚、動物などを食べる漁猟採集文化である。栗や栃の木を育てるというような果樹の栽培はあったかもしれないが、それは雑穀栽培農業にはつながらない。焼き畑も照葉樹林帯が育んだ文化ではなく、域外からの移入文化なのだ。
 古代史を調べて、過去の大権威がいかにあやふやなものであるかを知った。民俗学にしても、柳田国男など、単一民族、単一言語を前提にするから根本的に誤っている。稲作の起源も書き換えられる時が来たようである。
 日本語の語彙からみて、縄文時代にマライポリネシア系民族が渡来していたことを疑えない。日本の縄文晩期や弥生式農耕の母体として朝鮮半島や中国江南がある。雲南や東南アジアの農耕は土着のマライポリネシア系民族の農耕と中国華南からの民族移動により広まったものが融合している。雲南と日本に共通要素があっても、それはマライポリネシア系の基礎の上に中国江南農耕が東西に拡散して生まれたもので、雲南の照葉樹林帯で生まれたものが日本へ伝わったわけではない。中尾佐助の「照葉樹林文化」という絶妙なネーミングと魅惑的なイメージに酔わされ、それを印刷媒体が持ち上げていただけのことである、言葉のみで実態がない。ヒマラヤ山麓から日本にまで広がる広域の照葉樹林文化というものは存在しない。照葉樹林を破壊して生まれる文化なのである。

 池橋宏著、「稲作の起源(講談社選書)」では、水田稲作は、サトイモなどの水辺の根菜栽培、株分けによる栽培に起源を持つのではないか、稲も最初は株分けで栽培されたとされている。水田や溜め池は養殖池ともなり、漁労とも深く関係している。山の焼き畑による雑穀農業が麓に降りてきて水稲栽培を考案し、再び山に上がったという考え方より、最初から低湿地帯で発展した水稲栽培が山に上がったという考え方の方が、よほどスマートである。水稲栽培は水を施すだけの単純な灌漑農業に比べ、苗代や水田、水管理施設の工事など複雑すぎるのである。種まき雑穀栽培からはあまりにも飛躍が大きく無理が感じられる。最初から、そういう水っぽい環境の中で基礎技術を習得したと想定すべきであろう。
 「照葉樹林文化とは何か」の後半には、株分けでの稲作は想定しがたいと書いてある。そういう稲は種子を付けないらしい。環境ストレスで種子を付けるようになった稲を見つけて栽培が始まったという。

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