2016年11月20日日曜日

忘れられた古代和歌山

 和歌山県は、現在、近畿地方に入っているが、古代の畿内には入っていない。四国、淡路島と同じ南海道である。そのためか古代史の研究でもあまり重きを置かれていないように感じる。データが少ないだけではなく、交通不便で調査には車が不可欠、面倒ということがそれに輪をかけるだろう。東京や九州など遠隔地に住む人は、大枚を投入しなければならないし、現在も印象が希薄な県だから調査という意識すらおこらないはずだ。ところがなかなかたいへんな土地なのである。
 紀氏という、崇神天皇に妻妾を出せるくらいの大豪族の本拠地だった。神功、応神朝の首相的地位にあった武内宿禰後裔の紀氏ならその権威は説明できるが、崇神天皇はそれ以前である。元々、中央で権勢を誇れるだけの基盤を持っていたわけだ。出雲の大国主神も紀伊へ移動している。素戔鳴神も出雲に出現し、その子の五十猛、大屋津比売、都万津比売が紀伊に移動している(神代紀)。天照大神の形代とされる日鏡の一つが紀伊一宮の日前宮に納められている(古語拾遺)。そういったすべてに整合性のある解答を示さなければ歴史を解明したことにはならないのである。神代からそれに続く時代の和歌山北部の重要性を歴史家はつかんでいない。
 以前、桃山町史の編纂を委嘱されたというライターの方からメールをもらったことがある。崇神天皇の妃が、紀の国造、荒河刀辨の娘で(崇神記)、桃山町に安楽川(あらかわ)という地名があることから、地元では「ここだ」と伝承しているのである。私も付近が紀氏の中心地だったと考えて「魏志倭人伝から見える日本」に書いた。他に何かあるのかと興味を持たれたのである。中、近世の歴史が中心ということで、あまりお役には立てなかっただろう。その桃山町も市町村合併で紀の川市になってしまった。消えてしまった町の通史が残って歴史的には良かったのではないか。こちらも弥勒寺という気になっていた寺の情報をもらった。それ以上の手がかりがなくて、古代史と関係するかどうかわからないままだけれど。

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