「魏志倭人伝3」末尾に書いた張撫夷のことを一部修正。晋から張撫夷と名乗れと与えられたのではないかと書いたが、諡号として与えられたと考えた方が自然だと思って修正。張政は諱だと思えるが、張何とかと名乗ってきた功績のある人間に対して、改名しろとは言わないだろう。死後、その功績を記念して張撫夷という名を贈ったのだと思える。
魚陽張撫夷の魚陽も住んでいるというわけではなく、本籍地のようなものだとわかって記述を修正。魚陽の張氏の系統なのである。
正しい歴史を掴むために、知識はいくらでも必要だ。
「魏志倭人伝3」末尾に書いた張撫夷のことを一部修正。晋から張撫夷と名乗れと与えられたのではないかと書いたが、諡号として与えられたと考えた方が自然だと思って修正。張政は諱だと思えるが、張何とかと名乗ってきた功績のある人間に対して、改名しろとは言わないだろう。死後、その功績を記念して張撫夷という名を贈ったのだと思える。
魚陽張撫夷の魚陽も住んでいるというわけではなく、本籍地のようなものだとわかって記述を修正。魚陽の張氏の系統なのである。
正しい歴史を掴むために、知識はいくらでも必要だ。
出雲に国を作っていた越人は、大和へ移動して邪馬壱国を建て、その同盟国と女王、卑弥呼を共立して、公孫氏の帯方郡に保護を求めたのです。卑弥呼と公孫氏の関係は事実と考えて差し支えありません。漢は卑弥呼一族の敵で、それと対立した公孫氏と結ぶのは必然と言って良い。奈良県天理市櫟本町にある和爾氏系(=物部系)と思われる東大寺山古墳から、「中平(184~188))」という年号の記された鉄刀が出土しており、公孫氏との交流を示唆しています。霊帝の184年(中平元年)、黄巾の乱が起こり、これ以降、漢は大混乱に陥って滅亡へと向かいます。漢、中央政府との交流は考え難いのです。
紀伊国続風土記から、貴志川町国主(紀の川市)の大国主神社が有力社であったことを示す以下のデータを追加
紀伊続風土記、那賀郡・貴志荘・国主村には「昔は六十六ヶ国より種々の備物を以て当社の祭事に供へしに因りて其国々の国司より備物の料として此地にて方一里の地を神田と定め大贄の料とせり今土地の字に越中芝。尾張田、阿波小路、土佐畑、美濃田、因幡などという国号を以て田地の字に呼ひ来たれるは其の遺称なりといふ」と記されています。
国主の南方にある高津もコウヅだと書いていたのに、江戸時代はタカスだったとわかり削除。以前、応其(オウゴ)という地名がコウゴの訛だろうと書いていたのに、応其という坊主の名前に由来するとわかって削除したことがある。紛らわしい名前を付けやがって迷惑な坊主だ。補強資料追加はうれしいが、修正、削除はうれしくない。
以下の文を「魏志倭人伝から見える日本2」に付加。
「茹」は食う、菜を食う意味。「わが国ではユヅと訓じ熱湯にて煮る意」と辞書にあります。中国語では「茹(ゆ)でる」という意味はない。
魏志にある「倭地は温暖にして冬夏生菜を食う」と後漢書の「気は温腝にして冬夏菜を生じ茹す」は、
後漢書が菜を茹(ゆ)でて食べていると言っているのではなく、魏志と同じ意味を別の言葉で語っているだけである。
わかりきった文字と思っていても、日本語とは意味が異なる場合があり、油断は禁物。漢文の解釈には「手間を惜しまず辞書を引く」という地道な作業が必須である。日本文のための漢和辞典では心もとない。漢文を読むための漢和辞典を。講談社の「大字典」がお勧めである。
後漢書の気「温腝」の「腝」は日偏の「日耎(ダン)=煗」(フォント無し)が「暖」と同じなので、転写間違いで月偏になったと考える。
一番奥のエスカレーターで四階へ上がると、左手が映画館だった。中へ入ると壁際に入場券の自動販売機が置いてある。ゴジラもやっていた。映画を選んでタッチパネルを押す。14:05分からのゴジラはガラ空きである。なんせ平日の昼間。座席も選べるようになっているのか。「ふーん!」とパネルで選ぶ。お一人様。2000円。最後に支払い方法。「現金はご使用になれません。」「ん・パァーン」見てやるもんか。三階へ降りて、タリーズコーヒーでアイスコーヒーを飲む。柔らかい椅子に座って、買ったばかりの本を読む。コーヒーを飲み終えたころには頭も冷えてきた。現金を使える券売機があるかもしれない。もう一度、映画館へ。四台の券売機のうち三台は現金が使えて、よりによって、一番奥の使えない券売機を選んでいたのである。ラーメン屋なんかでもタッチパネル注文、セルフ支払いになって、おじいさんは戸惑うばかりである。まあ、なんとか予定通り、ゴジラを見ることができた。
「徐福は日本に来たか、澶洲は何処か」がちょっと取っ付きにくい感じなので、徐福以前のデータや徐福問題のあらましなどを追加し、入りやすくした。隋書の秦王国のデータも追加。
日本史とは関係がないと解っている人がほとんどなので、あまり読んでもらえないようだ。
「魏志倭人伝から見える日本、3」の最後に帯方太守、張撫夷に関する以下の文を追加した。
このことは森浩一氏の「倭人伝を読みなおす」で知ったのですが、帯方郡治と目される北朝鮮の黄海道石城里の北方八キロにある方墳から「使君帯方太守張撫夷塼」「張使君」「大歳在戊魚陽張撫夷塼」「大歳申魚陽張撫夷塼」などの銘文のある塼が発見されており、戊申年(288)に亡くなった帯方太守、張撫夷の陵墓であることが明らかになっています。撫夷という名は「夷を安んじる」という意味だから、これは帯方郡使、張政が改名したものではないかと森氏は言います。確かにそう思われる。「使君」というのは倭に使者として派遣されたことを表すのだろうし、「張撫夷」と名乗れと晋から与えられたものではないか。魚陽という燕より北方の出身だから、日本はさぞ暑かっただろうとも思われます。壱与は魏を滅ぼした晋への怒りから交流を断ったのではなく、「大変だろうから、帯方郡と連絡していれば良いよ」と免除されたのかもしれません。張政が帯方太守に昇進して張撫夷と名乗っていたのなら、その可能性の方が強そうです。
死亡年は288年説と348年説があるということだが、288年で決定である。倭はまだ女王、壱与の時代が続いていただろう。正始八年(247)に帯方郡使として倭へ派遣され、十六年後の景元四年(263)年に帰国し、その後、帯方太守に昇進。晋の武帝(司馬炎)、太康九年(288)に死去したわけである。正始八年の41年後なので、倭に派遣された当時は、健康で活発な三十代と思われる。
口数の少ないぶっきらぼうな人間なので、口数不足、説明不足を感じることが多い。サイトのトップページの表題に関しても、見返してそれを感じたので、解りやすいように書き足した。パッと見て中身に興味を感じてもらえるような表題でなければだめだろう。
海の季節ももう終りなので、和歌山へでも行くかと車を走らせる。走っているうちに有田市千田の須佐之男神社へ行ってみようという気になった。二十数年前に一度行ったきりなので記憶はほとんど残っていない。途中、下津町方の粟島神社の標識を見つけたし、初島町里という地名も見つけた。大国主神を祀る神社があると書いた土地である。帰りに寄ることにした。有田川沿いの国道42号線から離れて、千田という標識を頼りに進む。真っすぐの道だから迷うことはない。途中、道をまたぐ大鳥居があった。以前はこんなものはなかったはず。神社横に駐車場があって助かる。階段を上がった小山の上に神社がある。写真を撮りまくる。以前はデジカメなんてものが発明されていない時代である。今、劣化しないデジタルデータを残して置けることで、どれだけ助かっているか。ともかく、小山の上に神社があったということしか覚えておらず、初めての風景みたいだった。
神社を出た後、先へ進むと海沿いの道になる。海遊びの用意はしていない。車を止め、しばし、海を眺めた後引き返す。
初島町里のコンビニでおにぎりなどを買い、神社のありそうな場所を探す。寺があったので、あの山沿いはどうだろうかと、国道を外れて山の方へ向かう。行き止まりで、走りやすい方へ折れたら、二、三十メートルで鳥居が見えた。階段を上り、拝殿前へ行くと「国主神社」と書いてあったが、他は何もわからない。
国道へ戻って、下津町の粟島神社へ向かう。国道に神社の標識が立っていたので、ここは手間取らない。踏切を渡ると道の横に鳥居が見えたが、ミカン畑しか見当たらない。ずっと先のようだと車を進めると、行き止まりに神社があった。縁起書きを読むと、祭神はスクナビコナ命である。困るではないか。何かで読んで、大国主神を祀る神社として挙げていたのに、その資料が間違っていたわけだ。三十年くらい前のことなので、何処から仕入れたのか全く記憶にない。
帰宅してから、粟島神社を消し、それに合わせて記述を修正してUP。