2023年10月20日金曜日

帯方太守、張撫夷のことを追加。

「魏志倭人伝から見える日本、3」の最後に帯方太守、張撫夷に関する以下の文を追加した。

このことは森浩一氏の「倭人伝を読みなおす」で知ったのですが、帯方郡治と目される北朝鮮の黄海道石城里の北方八キロにある方墳から「使君帯方太守張撫夷塼」「張使君」「大歳在戊魚陽張撫夷塼」「大歳申魚陽張撫夷塼」などの銘文のある塼が発見されており、戊申年(288)に亡くなった帯方太守、張撫夷の陵墓であることが明らかになっています。撫夷という名は「夷を安んじる」という意味だから、これは帯方郡使、張政が改名したものではないかと森氏は言います。確かにそう思われる。「使君」というのは倭に使者として派遣されたことを表すのだろうし、「張撫夷」と名乗れと晋から与えられたものではないか。魚陽という燕より北方の出身だから、日本はさぞ暑かっただろうとも思われます。壱与は魏を滅ぼした晋への怒りから交流を断ったのではなく、「大変だろうから、帯方郡と連絡していれば良いよ」と免除されたのかもしれません。張政が帯方太守に昇進して張撫夷と名乗っていたのなら、その可能性の方が強そうです。

死亡年は288年説と348年説があるということだが、288年で決定である。倭はまだ女王、壱与の時代が続いていただろう。正始八年(247)に帯方郡使として倭へ派遣され、十六年後の景元四年(263)年に帰国し、その後、帯方太守に昇進。晋の武帝(司馬炎)、太康九年(288)に死去したわけである。正始八年の41年後なので、倭に派遣された当時は、健康で活発な三十代と思われる。

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