2017年10月15日日曜日

「歴史秘話ヒストリア」聖徳太子の実在

 NHKの「歴史秘話ヒストリア」で聖徳太子のことをやっていた。どうせ、「聖徳太子は実在しない」なんて類いの売らんかな本に基づいた編集をしているんだろうと期待もせずに見たのだが、案外まともで最後まで見られた。
 大王(オオキミ)だったのに、都合が悪くて日本書紀が太子に改変してしまったが、こういう偉大な指導者は実在したのである。「伊予国風土記逸文(釈日本紀巻十四)、道後温泉碑」には、法王大王と書いてある。「法隆寺金堂釈迦仏光背銘文」には法皇である。「上宮聖徳法皇帝説」という文献もある。おそらく聖徳法皇が本来の諡号ではなかったか。
 上記二つの、年代も場所も離れた無関係な資料には、法興六年、法興元世一年という年号が記されている。法興は三十年までで、翌年、法興元世と改元されたようなのである。その法興元世二年に聖徳太子が亡くなってしまった。太子の死後、年号は廃止されてしまったらしい。他のどの資料も伝えていない年号が存在して、これを無関係にねつ造するのは無理である。後世、消されてしまった年号は引っ張り出せない。それだけでも、二つの資料は聖徳太子時代のものだと認められる。番組では「法隆寺金堂釈迦仏光背銘文」を紹介していたが、最初に書いてある年号に関しては説明がつかなかったらしくすっとばした。干支が書いてあり法興元世一年は推古29年(621)である。だから太子が亡くなったのは622年で干支は壬午になる。621年とする日本書紀とは一年のずれがあるが、天寿国繍帳や聖徳太子伝私記の記す法起寺塔露盤銘も622年としており、日本書紀の方が疑わしい。
 専門家が実験した結果、この光背銘文は後から彫ったものではなく、制作時の鋳型に作られていた可能性が高いことがわかり、仏像と同年代、日本最古の金石文であることが確実になったという。
 聖徳太子の棺の断片ではないかという遺物も紹介されていたが、これに関して論評する力はない。絹と漆を何層にも重ねて作られた超高級品であることは理解できた。
 光背銘文には、王の尺寸に合わせて釈迦像を造ると記されており、聖徳太子は175~180cmくらいの長身と推定できるという指摘もあった。銘文は読んでいるのだが、そういうことには頭が及ばなかった。救世観音にもそういうことが伝えられていて、顔的にはこちらの方が実像に近いのではないか。仏像の形式離れした顔をしている。

「法隆寺金堂釈迦仏光背名文」は下記ホームページで紹介している。関連資料として「隋書倭国伝」もリンクしておく。

天皇号の成立と聖徳太子、推古天皇(聖徳太子は大王だった)
http://www.eonet.ne.jp/~temb/14/tennougou.htm

隋書倭国伝
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm

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