2025年3月11日火曜日

田原本から結崎まで歩く

 

 好天に浮かれて、今日は何処かへ出かけなくっちゃということで、12時過ぎから外出。田原本へ行く。

 田原本の町中を適当に歩いていたら、今まで見たことのない楼門のある寺があった。駅からそれほど離れていなかったのだが、まだまだ、気付かないものが色々あるだろう。江戸時代の寺が二軒並んでいた。城はなかったが領主はいたようだ。ともかく写真だけは撮っておいた。

 古本屋をのぞいてみるかと思い、古本屋の方向へ。目新しいものはなかった。こちらに必要なものは限られているし、そう簡単には見つからない。セット売というのも困る。

 店を出た後、寺川堤防を歩く。のり面に水仙やヒメリュウキンカの花が目立つ。梅も季節だ。奈良盆地の川は最終的には大和川に一本化される。歩いていれば、川沿いを歩いていれば、どこか知っている場所へ出られるだろうと、不安もなく歩き続ける。ずっと家に閉じこもっていたから、久しぶりに歩くと疲れる。こんなに衰えたかと思えるほど。
 堤防が行き止まりになったので、対岸へ橋を渡り、そちらの堤防沿いに歩く。河川維持のための道路で、一般車の通行は予想していないから、事故があっても知らないよという警告看板があった。道は狭く、車一台分の舗装しかなかった。堤防の工事中で、パワーショベルと人が動いていた。今日は平日なんだった。しばらく歩くと、高速道路があり、そこで川沿いの道は閉鎖されていた。高速をくぐって集落の方へ歩く。近鉄が横を走っているのが見えていたから、駅は有りそうだ。ファミリー公園だったら好いなと思ったが、公園らしき木々は見えなかった。大きなスーパーがある。町という感じ。駅を探したら、線路の向こう側に建物が見つかった。駅前を新しく整備したようで公園化されていたし、駅舎も立て直したらしい。結崎駅であった。田原本から石見、結崎と二駅分歩いただけだったのに、この疲れよう。駅でアイスクリームを食べながら電車を待つ。一時間に四本だから、15分ほど待っただけなのだが、ずいぶん時間を感じた。糸井神社があるはずなのだが、それらしき杜は見当たらなかった。帰ってから地図をみると、駅からかなり離れていた。このあたりでは比較的大きな町のようだ。帰宅は六時頃。

2025年3月4日火曜日

時代がようやく追いついてきた

ネットニュースで次の文を見つけた。

「近年発表された古代人のDNA解析の成果により、古墳時代の人びとの25%は朝鮮半島からの移住者であることが明らかになり、歴史教科書で学んだ「渡来人」をとりまくイメージは一変しています。これは、日本の文化の成り立ちにも関わってくるトピックです。」

「弥生の興亡」を公開してから25年になるが、世間がようやく私に追いついてきたようだ。自分の主張を裏付けるデータが、次々、出てくるのは気分が良い。日本人は、半分、中国人みたいなもんだと言っているのだから、気分を害する人もいるだろう。顔を見ればわかるだろうに。認める勇気があるかどうか、というだけである。

吉野ケ里遺跡の発見が大騒ぎされていた頃、私は氏族が系統別に分離できるかもしれないと考えていた。吉野ケ里遺跡なんて大騒ぎするほどのことでもないと目にもくれなかった。のちに「新撰姓氏録(氏族系統別)」の公開となって結実したが、最後まで迷ったのは藤原氏だった。姫姓の巴人が来ている可能性を捨てきれなかったのである。それも元の国に戻る浦島伝説と別れた妻を追って日本に来る天日矛の記述から、秦氏は呉系楚人、堂谿氏を祖先とする一族であると結論できたし、藤原氏は秦大津父を祖先とするという分析もできて、ようやく藤原氏は呉系楚人、秦氏、スクナビコナ神、狗奴国の一族であるとわかった。仁徳記の富木の大木の話との結びつきから藤原氏は狗奴国の臣、コウチヒコを祖先とすることまで明らかになる。

のちに中国の史書、「性解」の風俗通逸文として、扶余氏が呉王闔廬の弟、夫概を祖先とする記述を見つけて、呉系楚人の朝鮮半島への移住を裏付けられた。

正しければ、データが勝手にくっついてきて補強される。歴史の大きな流れが見えてくる。今昔物語や日本霊異記などの説話や民族学的伝承までが説明可能になる。そこからフィードバックされて、さらに歴史のもつれがほどけてくる。ずっとそういう形が続いているから、基本的に「弥生の興亡」、私の主張は正しいはずである。間違っていれば、行き詰って動けなくなったり、反証が現れて否定されてしまうだろう。